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万葉びとたちとの新年会「閑話~万葉の幻想を放ち~月西渡」

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「万葉の幻想」という言葉が、適切であるかどうか私の語彙能力では分からない

具体的に言えば、「万葉集の謎」のような類として、それが万葉集の大きな魅力の一つであること、と漠然と思っていた

「謎」というからには、研究者・専門家諸氏の数多くの論文や書籍があり、そのどれもが私のような素人にはつい読み耽ってしまうような魅力を持っていた

ただあまりにも多くの書籍に接することが出来るということは、それだけ自説の持ち合わせのない私には、ただただ混乱の極みでもあった

そもそもそんな「多くの謎」の、何とか解き明かそうとする気概もない私には、どれもが「なるほど」と唸るだけで、結果的に時が経てばもう頭には残らない

それでも、若いころから馴染んできた「万葉集」には、いっぱしの思い入れはある

二十代のころに夢中に読み耽った「相聞歌」や「挽歌」

何のことはない、誰もが味わう青年期の甘酸っぱいセンチメンタルの自己陶酔に他ならない

 

それがいつしか、二十歳のころに出逢った「万葉集」に少しずつ深入りし始めたのは、

たんに「その歌」の持つ意味・心を「もっと知りたい・本当はどうなのか」という純粋な興味からに他ならない

しかし...以下に、その時点から今日に至るまでの「私自身の万葉集変遷」を綴っていく

 

これまでブログやHPで、何度か書いている万葉集との出逢いは、当時山登りに夢中になっていたころの冬合宿にあった

およそロマンとは無縁な私が、冬空の星を観ても決して心を動かされることもなかったのに、

その星空を見上げて静かに涙する先輩の姿を見て、思わず涙ぐんだことから始まる

なんでこの俺が、と驚いたものだが、その合宿中にある仲間が熱っぽく語る万葉の世界に、少なからず気になり始めた

それが、私の万葉集への第一歩だった

 

文学とはそれまで一切縁のなかった私が、冬の山という特別な環境の中で、言ってみれば、その後の人生を大きく変えたひと時だった

その時の下山後、古本屋で一冊の万葉集の文庫本を買った

勿論、読み拾うのは、相聞歌ばかりで、その歌意に引き込まれ、次第に諳んじるようになっていた

いつしか、ありえないことだけど、誰かに手紙でも書く機会があれば、その万葉歌の一文でも借用して、などと夢見て...

当時の通信手段は、現代のような手っ取り早いものなどなく、唯一「手紙」だけだった

その手紙に、文字を書くことが、何故か私をときめかせたものだ

決して人に読ませるものではなく、書くことこそが一番の喜びだった

その数年前、高校生のころ、山を初めて登り、それ以降山登りに夢中になって始めた「山想い」の綴り書き

気づけば大学ノート32冊にまでなってしまったが、日々欠かさず書き続け、就職するまで「山想い」と「万葉集」は一日も欠かさず書き続けた

 

今思うと、就職しても続けていればなあ、と思うのだが、つい社会人の誘惑に負けてしまって...

 

「万葉集」に初めての変化があったのは、いつものように読み慣れた歌を、その情景を浮かべながら目をやっていた時

それまで、最初に買った文庫本以外に、他の本を読みたくなってまた古本屋に行ったこと

そのとき、初めて知ったのが、「万葉歌の訓」

私がそれまで知っていた「万葉歌」は、唯一の「訓解釈」で、他に異訓もなく、もちろん歌意の解釈もそれしかないものだ、と思っていた

ところが、万葉集のオリジナルはなく、現存するのはすべてが写本の系譜であり、そこに誤字もそのままに後世に伝わっている系譜もある現状

当然、古来の万葉学者は、どの系譜の写本を手元に置き、訓解釈をし、歌意解釈をしたのか、それが無知な私でも不思議に思えた

何しろ、まだ「平仮名」のなかった時代、発する音の表記は、漢字でしかない

ましてや、公文書として使用されている「文字」は、八世紀初頭の日本書紀の漢文...かろうじてほぼ同年代の「古事記」は、漢字表現の「日本語」のようだが...

平安時代の公文書として勅撰歌集「古今和歌集」が、初めての平仮名で世に出るまでは、公文書はすべて「漢文」だった

 

となると、古今和歌集の撰集時期より、約二百年ほど前の「万葉集の時代」、いくら歌が当時の日本語で詠われようと、その表記は必然的に「漢字」のみになる

万葉集の諸本どれみても、漢字の羅列で頭が痛くなるが、中には時代を経るごとに、写本の繰り返しの中で、一首毎の段落があり、比較的読み易いのだが、

それすらない時代の「万葉歌」を理解するのは、整理編集に慣れている私たちには、ほとんど最初の段階で諦めてしまう

従って、今日どの万葉集の本を手にしても、非常に読み易いのは有難いことだが、それは決してオリジナルではなく

極端に言えば、「五・七・五・七・七」で詠われていても、その漢字の訓解釈の字音次第では、どこで句切りをするのか、そこにも諸説が生まれる

万葉集の後期になれば、それこそ一音一字の「三十一字」万葉仮名が多く見られ、句切も訓みも比較的容易にはなるが

柿本人麻呂の時代の万葉集となると、やたらと「漢語・漢文」表記が多く、言ってみれば、「テニヲハ」などの助詞の表記さえない

そこにも、当然諸説が存在してしまう要素が多くある

助詞如何によって、歌意の解釈も変わってくる場合が多い

ただ、全体の文意に沿って読み下したり、歌意解釈を行うのだろうが、それは専門家に委ねるしかないのがないのが、素人愛好家の現状だろう

平安時代から、長年様々な解釈が行われて来た「万葉集」の研究成果の積み重ねは、確かに年々より合理的な解釈に近づいては行くのだろう

素人が、いくらこの歌は、こう解釈すべきだ、と感想を述べても、一字一句の長い間の研究成果には太刀打ちできない

 

唯一、素人でも可能なのが、「自分の心に、その歌はどう響いたのか」...これが、私のHPでのテーマになってはいるが、

人は、必ず思い入れが強いと欲が出るもの

私は次第に、原文...漢字表記として伝わっている歌に積極的に触れることにした

勿論、それにしても諸説が多く、これは写本の段階で誤字のまま残ったものだ、とか

オリジナルの漢字の曖昧さが、十分解明されないまま、歌全体に合わせて恣意的に漢字を充てたり...もちろん、多くの他の資料から考証されたにしても...

今回は、その姿勢で私が初めて感じた、「月西渡」を取り上げる

 

万葉集中で、原文「西渡」という表記は、唯一柿本人麻呂作歌のこの歌しかない

 

 万葉集巻第一-48

東  野炎  立所見而  反見為者  月西渡 (訓通釈 ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ)

この「月西渡」を、どうして「つきかたぶきぬ」と訓めるのか、不思議だった

「つきにしわたる」もあったようだが、江戸時代の初期の万葉歌を本格的に解釈した僧契沖の「代匠記」には、

「西渡」を義訓として「かたふきぬ」と訓むが、初句の「東野」との相対する詞とすれば、「ヒムガシノノ」、「ニシワタル」と字のままの方がいい、と言う

同じく江戸時代後期の万葉注釈書「万葉集古義」の鹿持雅澄は、やはり義訓として「ツキカタブキヌ」と訓む

これは、万葉集にある用字法とされるもので、漢字の意をそのまま用いた「表意文字」と、漢字の意味を離れた音だけを用いる「表音文字」があり、

「義訓」は「表意文字」の中でも、「訓」を用いたものをいう

例えば、「寒過暖来良思(フユスギテハルキタルラシ)、金(西ニシ)、角(東ヒムガシ)、白(秋アキ)、丸雪(霰アラレ)等」

月が西の空にある状態を、万葉集では「傾く」という

従って、「カタブキヌ」と義訓としての説明が成り立つのだが、もっと深堀すれば、助詞もないのに「完了の助動詞ぬ」を訓むのは、やはり文意に沿ってのことなのだろう

ついでに言えば、第三句「而」、第四句「者」は、助詞を表記しているのに...何故だろう、と疑問を持つ

 

この表現、もう一つ、解釈上にふと私自身の実体験を思い起こさせてもいる

もう四十年ほど前にもなるが、ジャカルタ駐在の時、市街地から空港に向かう時のこと、

南の空に「南十字星」が見えた

その星座は、普段でも見ることができるので、特に感動したわけでもなかったが、思い出したようにふと北の空を見た

空港間近になると、その道路は海岸沿いを走り、北面が海なので、北の空が視界いっぱいに広がる

そこで見たのは、思いもしなかった「北斗七星」だった

ただ、日本で見るような見上げる空の一角というのではなく、北側に広がる海原の水平線上、視覚の右から左いっぱいの大きさで横たわっていた

さすがにこの光景は息をのむほどだったが、当時は現代的な撮影手段もなく、ただただ心に刻むしかなかった

 

この48番歌の一つとっても、野にかぎろい、それが曙炎ならば、詠歌の舞台「安騎野」にそぐわない、などと諸説があるが、

私個人としては、普通に何気なく見えることのできる東野に曙光が差し、ふと西側を振り返ったら、輝きも薄い夜も終えんとする「月」...そこに何を感じるか...

 

原文から訓の解釈自体もままならないもの

その大前提が違えば、当然歌意解釈にも相違がある

初めて手にした万葉集の文庫本、それから他の万葉本で知った専門家たちの諸説

確かに通説と言われる解釈には、素人がこうは解釈できないかなあ、などと異論を挟むのもおこがましい

しかし、古語を恣意的に解釈せず、文法も自分なりに学び取ってその歌から自分に響く解釈、それも万葉歌を楽しむ一つの方法だと思う

 

思えば、古来からの万葉研究の積み重ねに基づいて、素人の私でも万葉歌をそれなりに楽しんでいる

しかし、ふと思うのは、その出来上がっている万葉研究というある種の絶対的な成果に囚われ過ぎていないのだろうか

そんなことも最近強く思う

 

「万葉集」は、一般的にいう「歌集」なのか

俗に「万葉歌人」とは言われるけど、私自身古くから「歌人」とはイメージが相成れなかった

古今和歌集の時代から、確かに「歌人」はその職制、家門めいたとらえ方も不自然ではないが、

万葉の時代の詠歌は、決して「歌人」というイメージではない

それぞれが官僚であったり、市井の人々(もっとも作者未詳が多く含まれるが)、地方の歌...

何しろ、文字を書き残すことができる人たちの階層が、漢字しか手段もなく

しかも、表音、表意などかなりのレベルの人たちでないと詠い残せないものだ

当然、才あるあるものが、巷で伝わる謡を書き残したり、誰かの詠んだ歌の代筆もされたことだろう

 

そこで思い至るのが、創作も多分に編纂されているのでは、と

その時代には、遣唐使のもたらした、大陸からの文献、文学的な書物も多かったようだ

都の貴族たちが、流行りのように競って手にしたと想像もできる

その流れで、創作的な表現が万葉集にも残されている...そんな歌は、万葉集には結構多い

 

研究者たちの、長い長い期間の研究成果の積み重ねを、それに沿う形で、私たちは享受しているが、

あるいは、その部分部分では、間違った前提解釈に乗っているのかもしれない

「万葉集」という名称から始まって、誰が編纂して、いつ成ったのか

万葉集は勅撰歌集ではないので、その記録もないのはやむを得ないことだが、少なくとも初の勅撰歌集「古今和歌集」が世に出るまでの百数十年間、公にはその記事はない

その間、限られた人たちの間しか、「万葉集」の存在は知られていない

しかも、893~913年成立の菅原道真「新撰万葉集」、905年成立の紀貫之等「古今和歌集」の序に、「いにしへ歌」万葉集の難解さを言及している

現在私たちが普通に読み歌意を理解できるのは、それから半世紀の後に有名な「梨壷の五人」による、万葉集を初めて訓解して以降のことだ

それは、まさに平安時代の歌人たちの「平安時代における」万葉歌なのだと思う

実際の万葉時代の「訓」は、そうした人たちの見識で成り立っている

梨壷の五人の一人、源順のエピソードで、万葉原表記「左右手」の訓を、随分悩み苦しんだ件がある

苦しんで思いついたのが、右手、左手、そして両手のことを「真手」ということに行きつき、「左右手」を「両手」、そこから「真手」それを「マデ」と訓む

 

 万葉集巻第七-1189 大海尓  荒莫吹  四長鳥  居名之湖尓  舟泊左右手 (大海にあらしな吹きそしなが鳥猪名の港に舟泊つるまで)

 万葉集巻第十-2327 誰苑之  梅尓可有家武  幾許毛  開有可毛  見我欲左右手二 (誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに)

副助詞「まで」の訓解釈の一端だが、確かになるほどと言える成果には違いない

しかし、やはり違和感は残る

その成否はともかく、時代を離れた非当事者における「訓」であることに、完全にそれで間違いないです、と言えるのだろうか

このような現在に通じる万葉集の歌の数々は、決して万葉の人たちが詠った本当の姿だと、思ってはいけない

もっとも、その可能性が大きいのは、当時のオリジナルに当時の人が、私はこう訓みました、とフリガナを付けていれば何も問題はなく

それが完全に不可能であることは承知なので、であれば、ほとんど可能性のない解釈だって、入り込む余地は、決して有り得ない事ではない

 

万葉集の「謎」という大上段な構えはするつもりはないが、私にとっての「万葉集はこうあってもいいなあ」と自身に響かせる目標を抱かせてくれる

 

万葉歌の全解釈(死ぬまでには絶対無理)、その過程でいわゆる謎といわれるものに遭遇し、そこでまた立ち止まって考えるのも楽しみだ

 

万葉人たちとの新年会、早く再開させたい


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