すでに確立されている、と思い込んでいるものを、何も気づかずに過ごしてしまう
若いころには、後に愚かなことだったと感じることでさえ、それが真っ当なことだと信じて進み出すエネルギーを、
後年の自身が肯定している...もちろん、今でもその心構えとかその有意性はしっかり認識している
ただ残念なことに、年を経るにしたがって、無意識であってもその限界自体を見つめていることに気づくことがある
いつもの思考や空想などが、自由に飛び回らない、ということは、そのことだった
「萬葉逍遥」というこの上もない、私にとってはリストの「前奏曲」に重ねて悦に入っている残りの人生を、
もっとエネルギッシュに想い巡らせたいと思っているのだが、なかなか難しい
ただ一つ、ささやかな目標ができた
それは、まもなく二歳になる孫娘に贈り続けようと思っている「童話萬葉集」という発想だ
私が死ぬまで取り組み、それでも終える事の出来ないHPでの万葉集解釈を、その孫娘に何とか引き継いで欲しいのだが、
まず、万葉集に興味を持ってもらわなければならな
そのために、判り易い物語性を持たせた一首の解釈集をやってみようと思う
もちろん、あくまでも孫娘だけへの贈り物として...
ただ、そう意気込んだところまでは、ひところのエネルギーの満ちている自分を感じたのだが
そこでまた私の悪い癖が出てしまった
一首一首の物語性、とは言っても、それは私にとっては普段解釈しようとしている姿勢と少しも変わることはなく
むしろ、考えられる範囲での幅のある解釈を、今まで以上に並べてしまう
そこで現在休会中の「万葉びとたちとの新年会」に再び顔を出して、彼らのアイデアを参考にしたいと思いついたのだが、
その道中、思いがけない人と出会ってしまった
それは、万葉の時代に生きる人ではなく、むしろ現在の私たちが普通に万葉集を楽しめるのは、鎌倉時代の僧・仙覚(有力説1203年生)のお陰、と言われるその人だった
ここ数年、私自身も何度も彼の業績に感嘆させられたものだが、未だにその実感が普段接する万葉歌から直接感じられることはなかった
どうしても、歌意解釈となると、より深く研究されて資料もどんどん新たな解釈を呼び覚ます現代の「歌意解釈」に想いが靡いてしまう
私自身いくら自分自身の解釈を心掛けていると言っても、本来古典の素養のまったくない者なので、やはり現代解釈に結果的には追従しがちだ
ところが、仙覚のことを意識し始めてから、無性に「古人」の万葉解釈、万葉観というものに魅力を感じてきた
仙覚は四千五百首余りの全歌の解釈ではなく、抄出された「萬葉集註釈」を残しているが、
それは、いわば当時の万葉集辞典のようなもので、歌の解釈というよりも、語句の解釈と訓...漢字表記の万葉集の読みを成したものだ
先日古書店で買った、「萬葉集の研究―仙覚及び仙覚以前の萬葉集の研究」(佐佐木信綱著、岩波書店昭和十七年刊)、
戦前の研究書に例外なく非常に読み辛い文体だが、今の私には、「仙覚以前」の研究という言葉が、何よりも心地よい
読み進めていくと、何度もそこで立ち止まり、もう一度読み直さなければ理解できないもどかしさもまた、本当に心地よいものだ
私が漠然と知っているのは、現代でも「訓」の定まらない万葉歌が実に多くあり
確かに、通説として知られている「訓」であっても、なかなか無視し難い異訓もあり、そこにも一定の魅力が存在する、ことなど
それらの出発点、いや「読もうとした」古人の出発点には、きっと現代の私たちが感じることのできない「歌の心」がったように感じてしまう
これは仕方のないことだが、万葉歌の通釈を拾ってみると、その歌心に、少なからず現代の情景を浮かべてしまう
しかし、万葉の時代の「詠み人」たちの情景、歌の心を、あの漢字表記から、どうやって汲み取れるのだろう
今回、せっかく「仙覚」と出逢ったので、前述の古書の冒頭を引用して、尋ねたいことを整理しておこうと思う
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第一章 註釈的研究
第一 仙覚以前
第一節序説
吾が国の歌集中最も庶民詩的性質を有すること多き萬葉集も、それが萬葉仮字の書式に記載され、一個の典籍となつた時には、すでに智識階級の間に行はれる文学となつて、一般庶民のもてあそぶものではなかった。されば、その書写して伝へられた範囲も、少数の官吏、学者、歌人などの間に限られて、極めて狭かつたものと考へねばならぬ。
其のうちに時勢は変遷して、古今集勅撰の前頃にいたると、萬葉集は、専門家の間にすでに難解なるものとなつて了つた。即ち、天平宝字三年(萬葉集中最も新しい歌の時代)を去る約百年、貞観の頃には、清和天皇が、時の歌人に萬葉集撰定の時代をお問ひになつたことが、古今集に出てをり、つづいて新撰萬葉集の序(寛平五年九月)には、「夫萬葉集者、古歌之流也。文句錯乱、非v詩非v賦、字對雜糅、難v入雜v悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。」とあり、さらに古今集の真字序には、平城宮と平城天皇とを混同して、「時歴2十代1数過2百年1」と記した。まして況んや、其の後にいたつては愈甚しく、後拾遺集の序には、「ならの帝は、萬葉集二十巻をえらびて、帝のもてあそびものとし給へり。かの集の心は、やすきことを隠してかたき事ををあらはせり。そのかみのこと、今の世にかなはずして、まどへるもの多し。」とある。その他、後撰集、拾遺集、古今六帖等の中に撰び入れられた萬葉の歌を見ても、その訓み方が、歌風上から意識的に詠みまほされたのみならず、十分に萬葉の歌の語法を了解してをらないことを一面に示してゐるものがある。而してこれらを考へてくると、萬葉集といふごとき大部の書が、さばかりの年代を隔てずして、専門の学者歌人の間にすらこれほど解らなくなつたといふことが、不思議に思はれざるを得ない。併しこれは、一度奈良時代と平安時代とに、文字言語の上、趣味好尚の上に非常な差別があつたことを考へると、その理を解することが困難でないのである。而して、かくのごとき結果として、萬葉集は時の専門家の間にも難解の古典となり、随つて、学者が研究の対象となつた萬葉学は、ここに其の端を開いたのである。而して其の研究が、まづ萬葉を訓み明らめ、その語意を明らかにすることから始まつたのは言ふまでもない。
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平安時代、まさに仙覚以前のことだが、その頃でさえも、すでに萬葉集という歌集は、それを理解できる人はいなかった、ということのようだ
それに、単純に思い込んでいた、庶民も詠っている「歌集」と言っても、確かにそれを典籍として残す以上、それを庶民が到底読める時代ではなかったはずだ
表記は漢字でありながら、部分的な漢文は多少あるにしても、基本的には「日本語」と言えるものだ
漢文の素養のあるものが、その文字を利用して書き記す日本語...万葉時代の萬葉集は、まさにその表記論的には混沌の産物であり、
その後の平安時代では、それを読み切れる者がいない、というのは、「語彙の継続性」がなく、まるで万葉時代の言葉の封じ込めのように感じてしまう
再び序から
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萬葉研究のまさしく文献に現れた瑞緒は、天歴五年(天平宝字三年を去る百九十二年)に、源順等五人が、勅命をうけて、梨壺に於いて所謂古点を試みたことである。その研究の内容に就いては、この事に関して記した文献に徴するに、「よみときえらばしめ給ふなり」(順集)、萬葉集和し侍りけるに(拾遺集)、「よみときえらび奉りし」(規子内親王家歌合)、また「令読解」(袋草子)、「順が和せる後」「順が点本」(六百番歌合判詞)、「移点の本」(六百番歌合陳状)、などある。これらによつて見れば、その訓詁を主としたもので、語意歌意を解釈したものではなかつたと考へられる。
この以前に属するものとして、和歌現在書目録(仁安元年成る)に、「萬葉集抄五巻、右一説紀貫之云々」とあるが、確かでない。[四条宮下野集に、「一品の宮の書かせ給へる萬葉集のせう」云々と見えてをるが、伝存してゐないので不明である。]
この古点を中心及び最初として、古点の時代からその後へかけて、萬葉に関する興味が学者歌人の間におこつた。こは、古今集以後生じた和歌隆盛の一般の機運(撰集・歌合・百首等の流行)、歌学の発生等に促されたものである。即ち萬葉集は、或は撰集の資材、或は詠歌の資料、或は論議の根拠として繙かれた。萬葉集の影響をうけた會丹集の歌人會根好忠の出たのは、順と同時であつた。能書の人々の間に萬葉書写の風がおこつて、貴族及び文人の間に萬葉が普及して来たのもこの後であつた。かくて古点後約百数十年を経て、所謂次点の時代が生じた。この後八九十年間は、萬葉研究の一振興を来した時代で、次点を補つたといはれる敦隆、道因、清輔、及び顕昭等の諸学者の努力も、この間に生じた。吾人が本研究の対象たる萬葉の註釈的研究は、この間におこつたのである。
而してその註釈的研究は、萬葉集の語句の解釈を主とした辞書的形式からおこつたので、かかる研究を生じたのは、一方に貫之・公任以来の歌学の系統をうけ、また和漢の辞書の漸次に出でた機運に促されたのである。しかしてこの辞書的研究のうちから、類聚古集、古葉略類聚鈔に見るごとき類纂的方面が生じ、更にその間に、註釈的研究がはぐくまれて来たのである。
今、当初から仙覚以前にいたるまでの註釈的研究の成績を挙げて見ると、主なものは左(下)の九種である。
第一 俊頼口伝 源 俊頼 永久元年成る。
第二 綺語抄 藤原仲実
第三 奥義抄 藤原清輔 保延永治頃初稿本成る。
第四 和歌童蒙抄 藤原範兼 久安仁平頃成る。
第五 萬葉集抄 佚名氏
第六 袖中抄 顕 昭 文治頃成る。
第七 和歌色葉集 上 覚 建久年中成る。
第八 古来風体抄 藤原俊成 建久八年成る。
第九 八雲御抄 順徳天皇 承久三年頃御草稿本成る。
これらの著は、概ね編者の年月を明らかにしないのであるが、その内容作者、又は文献の引用等によつて推定し、次第したのである。而して、俊頼口伝は長承二年鳥羽上皇の女御となられた高陽院が、未だ姫君であつた永久元年の頃俊頼が撰んで献つたものである。八雲御抄は、天皇が永久亂以前の御作[御精撰本は遠島にての御訂補と考へられる。]とおぼしいから、この間の年代は百年余りである。即ち、その間に上記の九種の著が作られたので、これ即ち仙覚以前の萬葉研究の時代と言ふべきである。
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尚、この他のこの時代に成った萬葉関連書も数種挙げているが、いずれも詳細な解説には及ばないと、している
「萬葉集」という名を、知ることができるのは、確かに古今集仮名序や、新撰萬葉集序などだが、
そこでは、万葉歌それぞれの歌意解釈にいたるものではなく、ただただ「萬葉集」の存在を伝えているのに過ぎない
私が、この著書で真っ先に思い浮かべたのが、藤原濱成著「歌経標式」に言及されていないことだったが、それもそのはずだ、としばらくして気づいた
上記の書籍は、仙覚の「萬葉集註釈」についての書籍であり、あくまでも「萬葉集研究」に対する書物であった
したがって、濱成の「歌経標式」自体が、まだ「萬葉集の存在しない」時代の書物であるならば、必然として対象外となる
でも、私にとっては、そこがまた面白いと感じるところだ
まだ萬葉集が世に出ない時期の濱成の「歌経標式」という現存最古の歌論書
その採り上げられた歌には、十数首の後の萬葉歌に似通った歌がある
どうして、「萬葉以前」の「歌経標式」を、「萬葉研究」の対象にしないのだろう...それが不思議でならなかった
今、こうして仙覚に会うことができて、やはりこの点を訊いてみなければならない
以前のように、一気に万葉の人たちとの新年会という語らいはまた遠回りにはなるが、
今回は彼らともっと近い時代に生き、そして、「生の声」を聞くこともなく、残された借用文字だけで、詠歌を再現させる夢のような作業に取り組む場景を、思い描いてみたい
仙覚さん...こんにちは
次からの語らいが、楽しみです