ここを留守にして、随分経ってしまった
ここでのテーマにしていた「新年会」は、二年半前から休会状態
確かに体調不良もその要因の一つだが、根本的には私の「万葉観」のイメージの揺らぎが強い
当初から、ゴールを決めて、そこに迷うことなく進むことを、あまり好きな手法とは思っていなかったので、
一気に書き上げるものであれば、それがどんな拙文でも、それなりに納得はできるのだが、
私の頭の中は、まるでスポンジのように、興味のある一文に出遭うと、そこから無秩序に歩き始め
気づけば、意図した方向とは違う「万葉観」を垣間見ることもある
そうなれば、その補完作業として、別の資料にも手を出してしまう...
私が、ここでの「新年会」で求めているのは、決して専門的なゴールではない
当然のことだが、そんな専門的な勉強などしたこともなく、あくまで好きが高じた「行きたいところへ、行こう」の気持ちだ
しかし、長い間万葉集に触れていると、普通の書店では見られない書物の存在を知らされ、
それが、古書店でしか手に入らないものであれば、何とか手に入れようとする
その日常の中で、現在進行形の方向のゴールを決めることなど、意味のないことでもあり、実際不可能なことでもある
そうすると、これまでの「新年会」で登場人物たちが、語ることの背景もまた、整合性の点からすれば、矛盾が多く生じてしまう
今回二年半という、私にとっては非常に長い空白期間で感じ取ったもの、まずそこから整理してみたい
私の「万葉集」との出逢い、そして当初の触れ合いは、単純に「歌に惹かれて」だった
万葉時代の人たちが、現代の私の心を、ここまで震わすのか、というほどの衝撃だった
その時点では、万葉研究などと大それた発想もなく、誰彼となく書き記した万葉本を、やみくもに読むだけだった
しかし、ある時点でその「万葉歌」が、とんでもない「遺稿」だと思うようになる
「遺稿」という表現は、きっと一般的にはここでは当てはまらないだろうが、私には間違いなく「遺稿」という表現でしか、この「万葉集」を見つめられない
なぜなら、未だに誰であっても、その一首一首を、その歌の作者たちが、どのように「詠んだ」のか、知りようがないからだ
万葉時代から、ほぼ一五〇年後になる最初の勅撰集、「古今和歌集」が「かな」で残された歌集であるのにくらべ、
万葉集は、まだ仮名の使われなっかった時代の、「漢字」表記でしか存在せず、しかもそのオリジナルさえも存在しない
現在私たちが触れることができる「万葉歌」は、綿々と続く「写本」のお陰だということ
当然、コピー機などない時代、その転写に誤字脱字があることは、容易に想像できる
写本が繰り返されるなかで、現在でも「何々本」とか言われる系統ができるのは必然のことだが、
まずそのことを知った段階で、あれ、万葉集って、その伝わり方で、複数の「訓」、「解釈」があるのか...違う系統の写本に伝わる歌の漢字表記の相違、
そうなると、もう私の「万葉集」は、「万葉歌」だけでは収まらず、その「時代観」そのものになっていった
万葉時代の歴史関連書、和歌関連書...集められるものは、かなり集めて、何とか「歌」の作者たちの心に触れたいと思うようになった
その過程で、今のところ行き着いたのが、不遜にも「万葉集の成立」に関する、必然的な興味であり、
そのきっかけが、巻第十五「遣新羅使歌群145首」だった...私自身は、この「歌群」こそが「万葉集」を「現存の歌集たらしめる」原形だと思っている
万葉集成立前に、現存する日本最古の「歌学書」と言われる藤原浜成「歌経標式」があるが、そこに採り上げられている、万葉歌らしき歌10数首、
確かに、「歌学書」「歌論書」が存在するには、そのテキストとなる「歌集」あるいは「歌集のようなもの」がなければならない
浜成が手にした「歌々」は、数十年後に成る「万葉集」の素材の一部だったはずだ
そこから、「万葉集」という奇跡の歌集を編纂させ、後世に残し得るエネルギー...それが、「天平八年(736)遣新羅使節団」だと思う
先程、不遜にもと書いたのは、図らずも「万葉集の成立」という、万葉集に関わる最も大きな問題に、私のような素人が向かっている、ということ
しかし、その成果を学術研究の成果のように振舞うことなどあり得ないことで、どこまでも私自身の「心を震わせた万葉歌のふるさと」を私自身のために、追いかけてみようと思う
「新年会」、辻褄の合うセリフでも思い浮かべば、その都度開こうかと思う