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Channel: 残雪、もとめて
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万葉びとたちとの新年会「第二十二夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

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大伴宿禰田主と石川女郎
この二人の贈答の歌が、三首ほど巻第二に収載されている
女郎が二首、田主が一首

126 石川女郎
 風流士と我れは聞けるをやど貸さず我れを帰せりおその風流士
127 大伴宿禰田主
 風流士に我れはありけりやど貸さず帰しし我れぞ風流士にはある
128 石川女郎
 我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし

この三首の歌の背景を、「万葉集」は左注にこう書いている

[126左注]
大伴田主、字を仲郎といふ。容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者嘆息せずといふことなし。時に石川女郎といふひと有り。みづから双栖の感を成し、つねに独守の難を悲しぶ。意に書を寄せむと欲へども良信に逢はず。ここに方便を作して賤しき嫗に似せ、おのれ堝子を提げて寝の側に到り、哽音蹢足し戸を叩きて諮りて曰はく、「東隣の貧しき女、火を取らむとして来る」といふ。ここに、仲郎、暗き裏に冒隠の形を識らず、慮の外に拘接の計に堪へず。念のまにまに火を取り、跡に就きて帰り去らしむ。明けて後に、老女、すでに自媒の愧づべきことを恥ぢ、また心契の果らぬことを恨む。よりて、この歌を作りて謔戯を贈る。

《大意》
石川女郎は、誰もが憧れるほどの容姿の持ち主である、田主に一目惚れをする
何とか近づきたい、と思いながらも、なかなか良いつてもなく、恋文さえ届けられない
そこで一計を案じ、みすぼらしい老婆になりすまし、自ら土鍋を提げて、田主の寝所のそばにやってきた
老婆の声色を使い、さらには足をふらつかせ、戸を叩いて案内を乞う
「東隣の貧しい女が、火種を頂こうと思ってやって参りました」と
田主は、真っ暗なのでその変装に気付かず、また思いがけないことでもあったので、女の計略にも気付かなかった
彼は、女の望むように火を取らせ、そのまま女を帰らせた
翌日女は、「仲人」なしに厚かましく押しかけて行ったことがきまり悪く、また想いを果たせなかったことを恨む
そこでこの歌を作って戯れ事に贈った
 
[128左注]
右は、仲郎の足疾に依りて、この歌を贈りて問い訊へるぞ。

《大意》
右は、中郎(仲郎)が足の病気なので、この歌を贈って見舞ったもの


「126左注」については、宋玉の「登徒子好色賦」(『文撰』巻第十九) や「美人賦」などの賦から暗示を得て作ったと思われる虚構性の強い内容、と現代叢書では解釈されている

こうした漢文学に精通する者なればこその掛け合いは、それを撰した者の知性を伺えるし、またその内容においても、
「126歌」で、『あなたは風流人だと聞いていたが、私を泊めもしないで帰した、間抜けな風流人』と罵るのは、
一見、「老婆」に変装した意味はなんであったのかさえ見逃してしまうのだが、次歌「127」の田主の返歌の深い歌に、納得させられる

この「左注」がなければ、この三首は男女間の俗っぽい掛け合いに終ってしまう
「127歌」の通説での歌意は、『風流人で、やはり私はあったのだ 泊めないで帰した私こそ、真の風流人だったのだ』とされるが、「左注」があるのとないのでは、まったく意味が違ってくる

女の誘惑にも負けない私を「風流人」だと自負する田主ではなく、
田主の「風流」雅観が、俗に染まらず、高邁な生き方を貫くことを自覚していた、そのことを思わせる、とされるが、
この「左注」で私が感じたのは、「やっぱり田主も俗な男だった」と、石川老女が気付いたことだ
田主の返歌は、石川老女が「戯れ事」に贈った歌への返し
その時点で、老女は田主の実情を悟っていた
さらに返歌によって、いっそうその意を強めたのだろう

それが「128歌」の憐れみ、あるいは皮肉にも似た歌になる
『私が聞いた噂どおりの人です 葦の穂先みたいに、力ない足のあなた お大事になさってください』


この三首が、いやこのような歌は、「万葉集」にも結構収載されている
歌そのものを読むのではなく、その歌の一つのエピソードを漢文学による知識を披露させんがためのように...
敢えて言えば、その知識を見せたいがための「詠歌」、まさに創作の虚構性を成している

後の「天平八年遣新羅使歌群」の手法にも、通じるものだと私は感じ始めている

目の前の家持は、この三首を旅人と憶良の共作ではないか、という
家持存命中には、「万葉集」の最終的な編纂は成されていない
この三首が、収載されていることを、編纂時の「左注」とともに、家持は知ってる

「家持さん、この三首のこと、どうしてそう思われるのですか? 父上からお聞きになったとは思えないし...」

家持は、ゆっくり銀閣寺の境内らしき路を歩き、時折目の前に垂れる葉に手を遣りながら、私にはかすかに微笑んでいるように見えるその顔を、私に向けた

「あの歌の『風流観』とでもいうのかな、それが直感的に父と憶良を想い起させました。そして、それが『万葉集』に収載されることを知って、ますます父と憶良のことを思ったのです。父は、ことさら『風流人』などと言いません。誰が見ても、『風流人』そのものなのに、ですよ。そんなことを意識せずに気ままに何事も行えるからこそ、『風流人』なのです。だから、当時『風流士』などと持て囃された風潮をいじってみたくなったのでしょう。ただ、あの三首にその意味を解する人が、どれほどいたか...私には解りませんが...。」

「それを『万葉編纂者』たちは、解ったのですか?」

この問い掛けは、家持も意外だったように急に顔を真顔に戻した
まるで、お前には解らないのか、と問われているようにも感じた

「では、率直に訊きますが、あの歌をあなた方の時代では、どう評価されているのですか? とても秀作だと?」

私には、歌の評価をする能力はなにもない
好き嫌いはあるにはあるが、その歌の文学上の評価など、考えたこともなかった
そんな私の困惑顔に、「ほら」というように、家持は続けた

「あの歌、あくまでも戯れ歌ですよ。私は詠歌として優れた『歌集』を仮に選ぶなら、あの歌は載せません。そもそも『万葉集』は、後の『歌集』のような『撰集』ではありません。『和歌』というまだ産声をあげたばかりの時代に、大陸の文化に近づこうと、また独自の文化を創ろうと、懸命になって模索し始めた時代のことです。大陸の『詩論』のようなものもなく、なんと言っても表現する『表記』の問題があります。そんな未熟で不完全な『和歌』を、何を基準に優劣を決めるのでしょう。少なくとも詠った歌は、紛れもなく『和歌』です。しかしそれを後世に残そうとする意識は、まだまだ当時にはありません。それが後の時代に、我々の歌が読み辛くなった大きな原因なのですが...。後に『万葉仮名』と言われる私たちの表記でも、それは十分とは言えませんでした。目の前にその実体のないものを、いくら大陸の文化だからといって、私たちの言葉では表記はできません。」

たとえば、「鳥」
私たちは、実際に鳥を目の前にして、それを「とり」と呼称してはいても、その表記は出来なかったとする
それを、大陸から持ち込まれた文物、あるいは人たちが、「鳥」という漢字で表記したとすれば、
必然的に、私たちは「とり」を「鳥」と表記できるようになる
そのような積み重ねが、次第に漢文学からの脱皮を手助けすることになっているのでは、と思う

その最中にある万葉の時代で、「万葉仮名」を駆使して「和歌」を詠い表記することになる
だからこそ、「万葉集」という奇跡の歌集が残り得たのだと思う
一旦その表記にはずみがつけば、その次の段階では、必然的に「優劣」が論じられてくる

残念なことに、それが「万葉の時代」では、まだ早過ぎたのかもしれない
いや、私としては、だからこそ「万葉集」は素晴らしい、と思うのだが...「未生の大歌集」として...

「目の前に実体のないものは表記できない」、この家持の言葉には、私もこれから随分悩みことだろう

「そうであれば、『孤悲』という表現は、本当に素敵なことですね。現代では『恋』という表記で伝わりますが、『孤悲』の表記を初めて見たとき、素晴らしい感性だな、と思ったのですが、それは本当に必然の表記だったのですね。好きな人と離れて、ひとり孤独に悲しむ。これこそ、目の前の実体ではなく、心の奥底に在る表現を、見事に視覚的に伝えています。こうした表記が決まり事のまだ定まらない時代に、それぞれが思い思いに使えば、確かに後の人が読むの葉大変なことです。」

私は、つい自分の知識を持ち出してしまったが、家持はそれほど関心を示さなかった
それほど、表記の使い方には、苦しんだ時代だったのだろう
「孤悲」という表記、表現は、ほんの一例に過ぎないことだったようだ


私は、話題を変えることにした
家持との銀閣寺境内の散策は、途切れることなく続いていたのだが、今の私は、家持の地方官吏としての最後の任地である「因幡国」という土産がある

因幡国で赴任した最初の年始に詠った家持の歌、それが「万葉集最後の歌」とされている
先日、松江への帰省の途中で、鳥取県鳥取市にある「因幡万葉歴史館に立ち寄った

「家持さんの、国司としての最後の赴任地因幡、そこでの賀歌が、『万葉集』最後の歌ということで、家持さん自身もその歌を最後に詠わなくなった、というふうに私たちは教えられました。そうなんでしょうか。」

その時の家持の顔を、私は忘れることはないだろう
とても苦しそうに、そして悲しそうな表情を、決して隠そうともせず、私に向けていた

「その国衙に、あなたは行かれたのですか?」
「ええ、行きましたよ。現代では、国衙跡として推定されているところですが、そこに因幡守として居られたあなたを、想像していました。近くに歴史館があって、そこに家持さんのことが資料として残されているのですが、やはり気になるのは、万葉賀歌とされる、あの一首です。」

江戸時代の万葉学者である契沖が、
「民を恵ませ給ひ、世の治まれる事を、悦び思召 (おぼしめ) す御歌より次第に載 (のせ) て、今の歌を以て一部を祝ひて終へたれば、玉匣 (たまくしげ) ふたみ相称 (かな) へる験ありて、蔵す所世を経て失 (うせ) ざるかな」 (代匠記精撰本)」
と言うように、「万葉集」冒頭の雄略天皇の歌、そしてこの最後の歌の「新年の降雪」を瑞兆とした見方で締め括ることの意味を持たせる見解を見せているが、私にはそうは思えない
この賀歌を、家持は誰の為に詠ったのだろう
それがこれまで、ずっと気になっていた
「賀歌」が公的な規定による「宴」での詠歌であることは、私にも異論はない

「私の最後の歌、というのは、みなさんの大きな間違いです。」

では何故、万葉編纂者は、この歌を最後として置いたのだろう
いや、最後のつもりではなかったのではないだろうか...


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