「天平八年の遣新羅使歌群」は、感覚的には「歌物語り」に思えるが、「物語り」というと、そこには演出がなされ、それは「あるテーマ」を持ち、読む者に表に現れる事象とは違う「何か」を伝えようとするものだ
「天平八年の遣新羅使」という史書に残る「外交団」でありながら、その実態は、なかなか理解出来ない
万葉集における「歌群」がなければ、私は気に留めることもなかった
いやむしろそのせいで、いっそう万葉集という深みの中をもがいている
「家持さん、私は思うのです。人麻呂さんたちが詠われた時代から、現代の私たちが目にする万葉集という『歌集』が成るには、随分と月日が経っています。たぶん百年ほどは経っていると思います。その当初の詠歌の動機、たとえば何かに心を動かされて詠むとか、それが作歌の良し悪しを心して詠むものではなくても、詠む人の心情を表現する手段として『歌』があったのだと思いますが、それが明確に『歌』を意識しての行為なのか...しかし、時が経つにつれて、その『詠う』という行為が、当時の大陸文化に匹敵する『文化』であることを本気で考える人たちが現れてくる。その時代こそ、家持さんの父上である旅人さんたちの時代ではなかったのでしょうか。」
大伴家持は、何かを思案するかのように、視線を上に向け、やがて隣の大伴三中に小声で何かを伝えていた
私としては、それほど失礼な質問だったとは思えなかったが、何だろう、と少々不安になる
家持の言葉を、真顔で受け止めていた三中が、しばらくしていつもの笑顔に戻ると、
「どうです、庭を歩くにはこの上なく清々しい淡い陽射しだと思いませんか。」
そう言って、仕切りも何もない部屋から、緑に覆われた外に目を向けた
私も、その誘いに乗るように外に目を遣るが、それほど上々の散策日和とは思えない
そもそも、今がどの季節なのかさえ、私には解らない
こうして「新年会」で話しを聞いている間に、雪景色もこの場から見えた
かと思えば、鮮やかな「黄葉」に眩しさを感じたのも、つい先ほどのことなのに...
小雨に映えた沢筋から、幻想的に立ち昇るけぶりに、「時」の意識もまったく感じない
ただ明確なことは、この場で集まる人たちは、すべて万葉の時代の人たちであり、ゲストとして後の世の人、道真や貫之もやってくると言う
これが、あまりにも出来過ぎた「夢」であることは考えるまでもなく解る
しかし、私の聞きたいこと知りたいことへの、彼らの応答は、決して「夢物語り」ではなかった
まさに、本人を前にしての「現実の夢」の場面が、こうして展開している
家持の手...まさかこんな風にして、万葉の最も輝く人物の手に触れようとは...
彼は、私の手を引いて、庭へ誘った
この「新年会」で、確かに目の前の姿は認識できる人たちであったが、この触れ合う感触は、想像もしていなかった
あまりの唐突さに、その手の温もりも感じる暇もなかったのだが、次第に実感として、彼の優しさがどんどん伝わってきた
私の「家持像」は、偉大な「風流人」であり、大伴氏の惣領としての人格を備えながらも、人間味溢れる父・旅人と違って、半ば世に背を向けた感のある人物像だったが、私の手を引く家持の力強さは、まさしく晩年の野心家「家持」を一瞬で思い出させた
優しさの伝わる家持の手の温もり、そして一瞬に力強い武門大氏族である大伴氏の惣領たる家持へ、と...
どのくらい歩いたのか解らないが、大勢の人たちの合間を縫って、私たちは庭先に出た
そこに見える景色に、思わず息を止めた
何故なら、先日歩いた京都銀閣寺の境内とそっくりではないか
しかし、そんなはずはない、創建の時代がまったく合わないし、何よりも万葉人の都は、奈良であるはず
京都で、万葉の縁の人たちが集まるわけがない
「驚かれているようですね。実は私もこの美しさに、心から酔いしれているのです。私も、初めて目にするお寺の境内です。」
そんなことがあるのか、と私は思わず家持に向き直った
「実は、この景観...ついこの間のことですが、後の都となる平安京で観たのと、そっくりなんです。でも、そのお寺は家持さんたちの時代から、七百年ほど後に造られたものです。どうして...。」
家持は、先ほど私の手を引いたような逞しさを忘れさせるほどの茶目っ気を見せて、笑い出した
「あなたが記憶しているものが、私たちに共有されて眼前に現れる、と言うことですよ。お陰で、こんなに素晴らしい境内を歩けるのです。お礼を言わなければなりません。ただ、寺の規模からすれば、私たちの時代も壮大なものでした。もっとも、何もかも大陸の影響ですけど、やたらと大きくて...。」
私は、すぐに「東大寺」を思い浮かべたものだが、あれは特別な寺だったはずだ
しかし、銀閣寺のような清楚な寺院を、家持が気に入るとは...いや、その境内に...
「私が歩いた銀閣寺は、生憎の雨で...」
そう言った途端、それまで春のような空の青さだったのが、小雨まじりの初夏の頃合に一変した
瑞々しい苔生した境内...これこそ私の好きな景観であり、それがどこであろうと関係なかった
やはり、家持も感嘆したように、小雨の中を嬉しそうに歩き出す
ここは決して山寺ではない
しかし、たとえ平地にあっても、人の暮らしの賑わいから離れた静寂さには、私にとっては「山寺」に匹敵する
そして、約束事のように思い出すのが、大津皇子と石川郎女が詠った「やまのしづくに」だった
「家持さん、あなたの時代から随分前の時代になりますが、天武天皇の皇子、大津と石川郎女の相聞の歌、万葉集にありますね。その中の彼ら二人だけしか言葉にしなかった『やまのしづくに』、今私はその感慨にひたっているのですよ。やまのしづくって、きっとこのような情景を言い、そこに想いを籠める二人の姿が、浮びます。逢えたら、いいのですが...。」
「新年会」に参加するメンバーの条件など、私に解るはずもなく、これまで見遣った顔ぶれに、大津や石川郎女はいなかったので、諦めてはいた
しかし、「やまのしづくに」を思い出すと、逢えそうな気もしてくる
「逢えますよ、あの二人に。でも、それは私が、あなたに語り出す中で、現れてくるでしょう。」
思い掛けない家持の言葉に、何も考えずに喜んだものだが、そもそも家持と大津とは時代が違うし、接点はないはずだ。どうして家持の話の中で、大津が関わってくるのだろう。」
そんな疑問を口にした
すると、家持の答えは明確だった
「石川郎女、その人が、私たち大伴氏と少なからずの関わりがあるからです。まあ、この話しは後ほどになるでしょうが、実はこれも『万葉集』には鏤められた話しの一つなんですよ。」
それっきり、大津やこの景観を話題にする雰囲気ではなくなってしまった
かといって、家持が不機嫌になった、という訳ではなく、彼は当初の私の質問に、どう答えようか、と考えていたようだった
「父、旅人の周りには、大勢の変り種がいました。その最たる者が、山上憶良です。後に紀貫之が編纂する『古今和歌集』の仮名序で、人麻呂と山辺赤人を『歌聖』と言って賞賛しますが、私自身も『山柿の門』というように、憧れた存在でした。まさに私たち和歌を嗜む者たちにとって、その存在は計り知れないほどのものでした。ところが、『山柿の門』の『山』は、私の本意では、山上憶良なんですよ。ただ、彼の考え方は、なかなか当時では誰も理解しない。ただその博識で、随分上役を手こずらせたにも関わらず、そこそこの官職を授けられてはいました。そんな憶良を可愛がったのが、父・旅人です。正直に言うと、私も次第に憶良に傾倒するようになったのです。彼からは、多くのことを学びました。それが私の『和歌』そのものではなく、人としてこうありたい、という生き方です。勿論、和歌にも多少の影響は受けましたが、とてもあの人の思いを素直に受け入れることなど、誰も出来なかったでしょう。いくら、尊敬していたにしても、です。そんな中で、彼の影響を最も受けた人物がいました。」
私は、当時の旅人の周辺の人たちを思い出そうと懸命だった
しかし、それほど細かに覚えてなどいない
誰ひとりとして、思い当たるような人物は浮ばない
「それは...父ですよ。」
この「新年会」では、思い掛けない言葉をよく聞くが、この家持の言葉もまた、これまで以上に驚くものだ
大伴旅人の詠歌に、憶良の面影があるのだろうか...私は感じたことはない
「話しは元に戻りますが、私と『遣新羅使歌群』との関わりですね。その発想の兆候が、父の詠歌にあったのです。ただし、それは父の詠歌として『万葉集』には載りません。別人として、詠っています。いや共作と言えるかもしれません。」
「万葉集」には、多くの「左注」がある
本文だけの「万葉歌」は、その背景が解らず、連作として関わるものに、どうしてもその「左注」は欠かせなくなる
単純に、詠った場所や日付だけのものや、どうした理由で詠ったのか、というようなものが多い
家持は、大伴宿禰田主と石川女郎との贈答歌を言い出した
「田主、この人物、系図によっては、父旅人の弟、つまり私の叔父に書かれるものもあります。しかし、授位されることもなく従って、公的な記録には、一切その名が見えません。後世に残る『万葉集』に、その彼の作として、一首が残ります。石川女郎との贈答歌の形式で、計三首になりますが、その左注を読まれましたか。『万葉集』はその本文以外はすべて漢文ですから、当然編纂した者たちの能力は評価されます。まあ、ここではそれは先の問題になりますから、田主と石川女郎との本歌三首の遣り取り自体も異質なのですが、その左注で語られる背景もまた、変わっているのです。そこには父と憶良の影響あるいは本人作ではないか、と私は思っているのです。」
私は、何とかその「左注」を思い出そうとしたが、さっぱり思い当たらない
そこに、「遣新羅使歌群」への兆候があるというのだろうか
「そして、大事なことは、この三首の意味を、おそらく誰も理解出来ていない、ということです。何故なら大陸文化の知識をひけらかせただけのもののようにも、受け止められますから。でも、そこに憶良が関わっていたとすれば、まったく違った解釈になります。」
私が席を外しても、この席では一瞬のことで、私は何としてもその歌を読んでみたくなった