「遣新羅使歌群」と大伴家持との関わり合いを訊く前に、もう一つ気になることが、沸々と湧き上がってきた
それは、大伴三中も家持も言うように、「万葉の時代」の、それもその時代にかつての古歌として収集されていた「和歌」を、「万葉の時代」の人たちは、どのように訓んでいたのか、ということ
それを、家持は中央に復帰してから訓点を続けた、という
私たちが現在触れることの出来る「万葉集」は、「万葉の時代」から、約二百年を経た「梨壺の五人」による訓点作業があったからだ
それがなければ、後の更なる研究の成果も、まだ混沌とした「借字の和歌」意識から発展も覚束なかっただろう
しかし、いずれにしても、幾系統があるものの「原文」の古写本は存在する
書写の繰返しだから、そこに当然誤写もあるだろうし、それがそのまま受け継がれていけば、一種の「原本」のようにも思われもする
それゆえに、平安期からの多くの「古写本」の評価も、研究が進めば、浮き沈みも多いことだと思う
少し前に、大伴三中に「万葉歌の訓」について訊いた
私の受けた感触では、もともと自国の文字で書かれていないので、その漢字の持つイメージを重視し、訓は結構ルーズだった、と言ってたような気がする
とは言っても、歌を詠んだ本人の「語句」は、どうしても興味を持ってしまう
たとえ、後世の人が、どんな訓み方をしようが、などと言われても...
その最も解り易い例歌がある
そのことを、大伴三中や家持に訊いてみたい
巻第十、秋雑歌七夕
吾隠有 楫棹無而 渡守 舟将借八方 須臾者有待
この歌の初句の訓み方を、多くの注釈書では「わがかくせる」と字余りの六音で訓む
原文漢字表記を、そのまま訓めば、そう訓むことになる
「家持さん、この歌、『わがかくせる』と訓むことが自然だと思うのですが、他に訓み方があるのでしょうか。」
おそらく、思いもしなかった質問だったのだろう
二人とも、少し驚いた表情はしたものの、すぐに微笑ながら答えてくれた
家持が話し出そうとするのを、三中が身を乗り出し自ら話すから、と
「なるほど、『牛留鳥』のようなものですね。あのときも言いましたが、漢字の意味から醸し出す気持ちを汲んでもらえるのなら、どんな訓み方であってもいいのです。私たちには、漢字の持つ意味も、決して疎かに出来ませんでした。何しろ、私たちの気持ちを言葉にして、それを書き表す自国の『文字』がないのですから。例えば、私たちの時代に、歌を一首詠ったとしましょう。それを『借字』で記録します。でも、その書き残された『歌』を、時をおかずに誰かに渡したとしたら、その人は、私と同じように訓んだでしょうか。勿論訓めるときもあれば、その人の漢字の知識で、違った訓み方をしたかもしれません。ただ、感じの持つその情景を表現し伝えたい、というのはもっとも重要なことでした。次第にその漢字の『訓』も、決まり事のように、決められていきますが、まだまだ誰もがそこまで厳格ではありませんでした。この家持が、そうした決まり事の定着に大いに関わったのです。あなたが今言われた『わがかくせる』の歌ですが、表記を『吾隠有』とする以上、詠んだ本人は、そう詠んだのでしょうね。その意味においては、その通りですから。」
ここでも大伴三中は、私にとってはあまりにも意外な「訓」に対する見解を述べる
「実は、この初句ですが、あなたたちの奈良時代の後、平安時代になりますが、その中期...三百年ほど後になると思いますが、その頃『元暦校本』という『万葉集の訓』を記した書が出ます。その書に、この初句を『かくしたる』と訓み、その訓み方を私たちの時代になっても普通の人が読める書として世に出ています。」
これには、三中も家持もそれほど驚かない
何だか、私の方が、的外れなことを言っているかのように思えてしまう
「それに、家持さんの父上である旅人さんと同じ世代になるでしょうが、山部赤人さんがいますね。紀貫之が『古今和歌集』の序文で、柿本人麻呂と並ぶ『歌聖』というほどの人です。実際に赤人さんの歌以外の記録は、後世には伝わりませんが、その歌は随分と高い評価をされて、私たちの時代でも慕われています。そこで、気になることがあるのです。」
平安中期頃、「梨壺の五人」による「訓点作業」が行われ、「万葉集」に対する認識が高まった頃に違いないが、その頃に「赤人集」と言われる「歌集」が編纂されている
勿論、山部赤人の作歌を収載した「歌集」ではないばかりではなく、約三百五十首の歌のほとんどが、「万葉集巻第十」の作者不詳歌が載る
その内の一首が、前述の「吾隠有」の歌であり、その「赤人集」の平仮名歌では、
「二三八 わかゝくす かちさをなくは わたし守 舟かさむやは しはらくの程」
現代訓、小学館「新編日本古典文学全集」
「我が隠せる 楫棹なくて 渡り守 舟貸さめやも しましはあり待て」
現代訓、岩波書店「新日本古典文学大系」
「隠したる 梶棹なくて 渡り守 舟貸さめやも しましはあり待て」
「句中に母音を持たない六音の字余りになるので、それを避けるために『吾』を不読の文字と見なした、といいます。元暦校本の執筆者が、それを同じように意識したのか、あるいは平安時代では『われ』などの自称を歌に用いなくなる傾向が強くなるので、その影響なのか私には解りませんが、少なくとも私たちの時代では、字余りを回避させることに大きな理由をつけています。でも、ならば学者たちがみなそうか、といえば、そうでもないのです。この字余りのことなど触れずに、表記通りに『わがかくせる』と訓まれる書がほとんどです。問題は、『わが』という語を不読にしても、訓む歌としては成り立つ、と言うことなんですね。それこそ、『わが』と言うまでもなく、その主語は『わが』なのですから。それが、平安中期の人たちの『和歌観』ということなのでしょうか。」
「赤人集」の初句は、「わかかくす」と五音で、字余りを回避させている
「梶棹」を修飾する「連体修飾格」として、解釈上に意味に、どんな影響があるのか、私には解らないが、
確かに「五音」という初句の定型に拘れば、「赤人集」の訓は魅力的になる
しかし、現代の学者の中には、単に「字余り回避」だけでなく、詠歌における「吾・我」という語句を使わないで、自ずと歌意を「吾・我」と解らせる手法も優れている、という書もある
ただ、私自身は、その詠歌の評価に関わらず、作者本人が語らず、あくまで残された原文表記を訓むなら、やはり「吾・我」は訓むべきだろうと思う
ところが、三中の言い方だと、意味がその表記で伝わるのなら、訓み方は二の次だ、と言わんばかりに聞こえてしまう
「和歌を詠むということは、まさに詠うことです。自分なりに抑揚をつけて詠うのです。その場合、字余りだあるにせよ、そこは節回しで流すのです。だから、それほどこだわらなくてもいいと、私は思いますけど、後の人は、和歌の確立に、本当に懸命だったのですね。
「三中さん、ついでに言えば、先ほどの『赤人集』、そのかなりの収載歌が『万葉集巻第十作者不詳歌』といいました。そこには、平安中期になっても、『万葉集巻第十』を、山部赤人の関連する『歌集』と受け取る人たちが、少なからずいた、ということになりませんか。そうだとすれば、三中さんたちの『遣新羅使歌群』のように、今でこそ『万葉集全二十巻』とされていますが、やはりそれぞれの『巻』が独立して存在していた時期もあった、そうかもしれませんね。」
三中は、そうですねえ、と相槌を打つように、何度も首を縦に振る
「何しろ、私の生きていた時代では、『遣新羅使歌群』の原資料と、家持たちが整理を始めたばかりの『古歌集』くらいでしたからね。ただ、その『古歌集』も、家持たちがいてこそ、あのように『万葉集』に収載されるようになったのですから、私には詳しいことは...解りません。家持から、もっといろんなことを聞いてください。」
「赤人集」は、平安中期、おそらく「梨壺の五人」による「古点」の頃だと言う
すると、「巻第十」の「訓読」は、その「古点」に沿ったものであるはずだ
まだ、「新点」の仙覚の時代には、及んでいないのだから...
さあ、家持に訊くべきこと、まずはやはり「遣新羅使歌群」のことからだ