私は、かなり緊張していた
何か言葉を出そうと、身振りで自身を鼓舞するのだが、そんなことは全く効果もなかった
大伴家持、と言えば、客観的に言っても「万葉集の象徴」のような人物であり、
そのあまりにも人間臭ささを見せ付ける詠歌には、たんに憧憬だけでなく、ときに身近な人物のようにも感じさせる
ただ私たちが、このおそらく歴史上の実在の人物であろう「大伴家持像」を想い描く時、かなり注意しなければならないことを、私はここ数年で感じていた
それは、「万葉集」以外で残る公的文書と、「万葉作者」大伴家持とのギャップだ
「万葉集」における大伴家持は、まさに「象徴」とも言えるべく、万葉集最後の歌の作者となっている
勿論それだけでは、何も家持に限ることなく、どんな作者であろうと、その可能性はある
「歌集」が成った時点で、それがただちに収載されるのであれば、「最後の」という意味は、少なくとも「万葉集」が成ったのは、その最後の歌「天平宝字三年 (759)」をもって原稿は終った、ということになる
しかし、そうではなかった
「家持さん、あなたが歌われた天平宝字三年正月寿歌が、私たちの知る『万葉集』の最後の歌になっていますが、そのときあなたは、因幡守の職位にあり、年齢も四十二歳だったはずです。 『万葉集』で最も多くの歌を載せられているあなたが、亡くなるまでの以後の二十六年間、まったく詠わなかったのかどうか、私のもっとも気になるところでした。」
家持は、時折頭を振る仕草をするが、そこには優しさが溢れていた
その点では、私の家持像とそれほど違いはない
ただ、大和朝廷以来の名門の氏族を代表する人物が、その晩年にただ「優しさ」だけを周囲に見せるのは難しいことも、私には理解出来る
「万葉集」に絡めれば、因幡守の職務を終え、天平宝字六年 (762) に帰京するが、そのときの権勢は、あの藤原仲麻呂 (恵美押勝) が掌中に収め、なかなか古来の名門氏族とは言っても、その中での出世はとても容易ではなかった
しかし不遇続きの大伴氏にあって、家持の野心は、これまで都を離れた地方官の鬱憤を晴らそうとするエネルギーに充ちていたことだろう
ほどなく、藤原南家の仲麻呂に対して、式家の藤原宿奈麻呂らと仲麻呂暗殺計画を立てるが、それも密告により頓挫する
この席で、政治的な話題は出来ない、と当初聞いていたので、帰京後の家持の情況はあくまで公文書でしか確認できないが、その一事件をもっても、家持が帰京後もなお「詠歌」に情熱を持ち続けていたとは思えなかった
「確かに、因幡守の職務を終え、京に戻ってからの私の歌は、『万葉集』には見られませんね。それは、私自身のある意味での覚悟でした。大伴氏惣領としての自覚も芽生えていたし、これまでのように、詠歌に逃げるわけにはいかなかったのです。」
ここで家持は「逃げる」という表現を用いた
彼の詠歌が、「逃げる」行為からくるものだったとは思えず、勿論彼の遠孫であることは、すぐに理解出来た
「父・旅人の伯父である大納言大伴御行、その子である三中伯父が遣新羅使の副使に任命されたとき、私ははっきりと感じました。その時は、確か十八歳頃だったと思います。でも、大伴氏に対する不当な仕打ちを、感じてしまったのです。その天平八年と言えば、大宰府で疫病が蔓延するもっとも危ない地域を、必ず立ち寄らなければなりません。大使の阿倍氏をはじめ、遣使に任命された人たち、古来の名門であるが故に、ひどい仕打ちだ、と。本当に新羅へ行く意味があったとは思えなかったのです。その頃から、三中伯父にはいろいろと教えてもらうことになりますが、私は天平十八年、遣新羅から十年ほど後に、越中守として越中国に赴任します。でも、三中伯父たちから聞く様々なことが、どうしても頭から離れませんでした。だから、因幡守の任から帰京してからは、三中伯父が『遣新羅使歌集』というものを纏めたいという気持ちを持っていることを知り、お手伝いしたいと思ったのです。その遣使たちのこと、ずっと気になっていましたから、小さな歌集のようなものでも何とか残したい、いや出来るなら物語風にして、唐風の『小説』のようにでも、と思ったのですが、それはこの三中伯父に反対されました。当時あまり盛り上がりのなかった『和歌』に、三中伯父は拘ったのです。その方が、大陸の真似事で想いを半減させるより、拙くても自分たちの言葉で歌を持ちたい、その気持ちに、私も共感したのです。何しろ私自身が、漢詩より和歌の方に魅力を感じていましたから。」
そうだった、当時の文芸の主流と言えば、やはり「漢詩」のはずだ
それでも、それは自分たちの「言葉」ではない
「言葉」は、その国の文化のことだ
三中が「和歌」に拘るのも、あの遣新羅使人たちの苦難を考えると、当然のように思える
自分たちの苦痛、苦悩は、自分たちのことばでこそ発揮できるのだ、と
当時の巷でも、記録として歌を残す意識ではなく、俗謡のように謡い継がれていたものがある
当初は、高位の貴族・官人たちの間でこそ、私的に詠われていた「和歌」も、漢字表記の手段を用いて、残せるようになる
それが、「万葉集」以前の、歌集として少なからずある
「万葉集」の左注にそのことが伺えるものも多い
その代表的な「歌集」こそが、「柿本朝臣人麻呂歌集」ということになる
「家持さん、遣新羅使歌群の百四十五首中に、『古歌』と言われる誦歌も結構ありますね。」
家持は、珍しくそうだぞ、と言うように目を輝かせ首を縦に頷いた
以前から、私は漠然と思っていたことだが、その当事者である家持を目の前にすると、本当に訊いていいものか、と逡巡もしていた
その時、そばで穏やかに聞き入っていた大伴三中が口を挿む
「もともと私たち遣使が、あの航海で実際に詠い書き留めたものは、それほど多くはありません。半分も満たないでしょう。前にも話しましたが、この家持の案で、あなたたちの知る『遣新羅使歌群百四十五首』になったのです。当然、家持自身の歌もありますが、ここで知っておいて欲しいのは、『古歌』の類を載せられたのは、家持の発想からです。
その本になったのが、柿本人麻呂の『柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首』歌です。」
確かにそうだ
巻第三の「柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首」の内、五首ほどは「小異歌」として「遣新羅使歌群當所誦詠古歌」などに載る
あるいは、歌の想いは同じものとして遣使たちの心情にも違うことはない
こうした「柿本人麻呂」詠歌は、その原文を唯一の表記として訓むことは、そう容易なことではない
それを、家持が一字一音の「音仮名・訓仮名」で訓だということになる
こうした作業は、後の訓点作業の先駆けになるものだ
それがオリジナルと、小異歌であっても訓読歌として、同じ「万葉集」という「歌集」に収載されているということは、後の編纂段階での認識が及ばなかったのか、あるいは家持たちが、意図的にそうさせたのか...
私は、後者だと思う
「何しろ、あの『歌群』は、三中伯父の意向はともかく、私としては中央への、いや藤原中枢への憤りがありましたから、何とか残せる形にしたかったのです。その為に新たな創作も挿入させなければなりません。物語が成り立つように。正直に言えば、人麻呂さんの『歌集』や作歌は、とても難しいです。私の時代での用字法とは随分違います。『万葉仮名』と呼ばれる用字法がなかった時代ですから、それを作者と同じようにその表記だけで訓めることなど、思ったこともありません。まず歌意を理解することから始めました。勿論、訓めなければ歌意も理解するのは困難ですが、幸いにも表意文字の『正音・正訓』を理解出来れば、漢字そのもので理解も出来ました。でも...それをしようと思った人は、当時は誰もいなかったはずです。だから、きっかけは私の個人的な感情からであっても、それが後の『万葉解釈』に少しは役立ったのではないかな、と思っています。その点で言えば、藤原濱成の仕事が、一番大きいかと思います。」
家持と同世代の藤原濱成
家持が大伴氏の再興に力を注ぎ始めるころ、濱成は藤原一族の中でも本流から外れた京家の嫡子で、現存する最古の歌論書「歌経標式」を後に著すが、二人の交流は濱成の父・麻呂に嫁いだ大伴坂上郎女の縁などもあって、かなり深いものだったと思う
そのことを明確に示す資料などはないが、その時代の背景を思う時、「和歌」という共通項で繋がる
「万葉集誕生前」の、夜明けの映像が、浮んでくる
まだ藤原濱成は、この会場に戻っていないが、家持と交へて話を聞いてみたい、痛切に思った
「このように、『万葉集』に私の因幡守在職中の詠歌が最後とされるのは、本意ではありませんが、それも仕方ないことです。帰京してからは、公の場で詠むこともなくなりましたし、『古歌』への関わりが増えてきたのですから。」
後の「万葉集編纂者」たちが、何故家持の詠歌を最後に配置させたのか、これから聞いていかなければならないことなのだが、その編纂者たちの時代は、もっと先のことだ
大伴三中の言う、当時の公文書にその名を確認できなくても、自ずとその名は挙がってくる、という言葉に期待しよう
私は、「遣新羅使歌群」の中での、大伴家持[歌]を、もっと知りたくなった