Quantcast
Channel: 残雪、もとめて
Viewing all articles
Browse latest Browse all 71

万葉びとたちとの新年会「第十八夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

$
0
0

この「新年会」に、唐突に参加できたのも、漠然と芽生え始めた「万葉集編纂者」の幻を追いかけようとしたからだ
さらに言えば、その答など求められるものではない、と従来からの常識にとらわれ、私自身は積極的に思ったこともなかった
しかし、「天平八年の遣新羅使人」たちの歌群が収載されている「巻第十五」にのめり込んでいると、ひょっとしたら、これが「万葉の原点」ではないか、と思い始めた
その矢先の「新年会」への招待だったので、必然的に「万葉集編纂者」の姿を期待してしまう
ところが、参加者の顔ぶれを見渡すと、編纂者探しだけでなく、「万葉歌」そのものへの私にとっての不明なところを知りたくなる
それが、結果的に「万葉集編纂者」へ繋がるのは間違いないだろうが、これまでの万葉人たちの話し振りを聞いていると、実際の「万葉集編纂」が具体化するのは、奈良時代を終えてのことらしい
平安時代の初期、こうした遷都にともなう諸々の「機運」の影響も否定できないと思う

先週の金曜日、小雨の京都を一日かけて歩いてきた
京都の洛北は、私の唯一の京都のお気に入りエリアだ
鞍馬で感じた、大津皇子と石川郎女の贈答歌に、集中その二首にしか詠われない語句「山の雫に」を、場所も時も違うが、確かに感じた
おまけに、銀閣寺の苔むす境内や清楚な「観音殿」、「東求堂」を見たときは、「ここは...」と、心の中で呟いた

雰囲気が、私のイメージする「新年会」の、その場を彷彿とさせた
勿論、室町時代の「銀閣寺」に、万葉の面影などあるわけではないが、現代人からみれば、その静謐さが、万葉の時代とそれほど変らないように思えてしまう
現代の私たちが見る「銀閣寺」は、536年前の姿、そして万葉人たちからすれば、700年近くも未来の姿なのだが、そんな気の遠くなるほどの「とき」を、この銀閣寺境内の「時とは無縁」な情景を醸し出しているように感じる
これも、京都のことをほとんど知ることのない、私の妄想なのだが、時の移ろいは、現代ほど過去は速くないに違いない
そのことを強く感じる


固定観念を持つことは、あまりいいことではないが、こうして「銀閣寺」の姿を思い浮かべ、「新年会」に参加している私の姿を、想像している
建物は違っても、この平安の地で、「現代に伝わる万葉集」は、生れたはずだから...

 

大伴三中が語り出した「牛留鳥」の訓に弾みをつけて、私は後の世の「万葉歌」の扱い方を、三中に話すことにした
それは、「巻第二 112」の額田王の歌だ

額田王奉和歌一首 [従倭京進入]
古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
 いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと
 いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし あがもへるごと

この結句「吾念流碁騰」の訓は、現代では「あ (わ) がもへるごと」と訓み、「念」を「おもふ」と訓むのは普通のことだが、これには次のような経緯がある

現代において最も底本として使われている鎌倉末期書写の「西本願寺本」、その理由の一つは、全二十巻、いわゆる「完本」の形を持つ唯一の古写本だからだろうが、その「西本願寺本」では、「吾念流碁騰」の結句が「吾恋流其騰」とあり、明らかに違うのは「念」と「恋」
底本として、比較的信頼度の高い「西本願寺本」の「恋」ではなく、平安中期書写「元暦校本」、平安末期書写「類聚古集」、室町末期書写「金澤文庫本」などの「西本願寺本」以前の古写本では、現訓とされる「吾念流碁騰」と書かれている

「恋」も「念」も、「おもふ」ということにおいては似たようなものだが、現代の諸注が見解を述べるのに、多くの古写本が「念」を用いているから、というのが理由の一つにあげられている
問題は、そうした古写本でも、「念」を訓じるとき「こふる」と書かれていること、その推察できる理由として、古本の書写を行った時代の歌人たちには、「わがおもへるごと」(わがもへるごと) という言葉が、耳に少なからずの抵抗を感じさせたのでは、という
だから、「念」という表記でありながら、「恋」のように「こふる」と訓じ、「わがこふるごと」と当時の定訓として広がり、あげくには「西本願寺本」の書写が行われた鎌倉末期に至って、それまでの原文「吾念流碁騰」を意図的に訓に沿って「吾恋流其騰」に変えたのだろう、と
しかし、それも現代では「誤写」の範疇と言うものには違いない
だから、多くの古写本が残す「吾念流碁騰」が、一応現代での定訓となるのだが、この例一つをみても、訓点作業の基準となる「表記」と「訓」との関係を、今ほど厳格に行ったのか、といえば、やはりそうではないように思える

「三中さん、このように現代の私たちが目にする『万葉集』は、あまり厳格とは言えない平安時代以降の歌人たちの、そのときの「和歌観」で左右された傾向もあります。勿論、逆に現代の学者たちが、その厳格性を求める手段として、ある文字の用い方を、集中の全歌と照らし合わせ、用例が全くないから、少ないから、あるいはこんなにあるから一般的だ、とか書いていますが、それも私からすれば万葉集全歌4540首が、万葉の時代のすべての歌ならともかく、そうでない知られないで埋もれている歌も多いはずです。そうであれば、用例の多寡だけでその文字の使い方を決めるのにも問題はあります。もっとも、一つの手掛かりには違いありませんが。」

先の額田王の歌だけでなく、同じようなケースはきっと多くあるはずだ
万葉の時代から百年以上経った時代、「古今和歌集」の「仮名序」に述べる感性は、万葉時代のものではなく、平安時代のものであり、また源順などの「梨壺の五人」に至っては、その時点での「万葉歌表記」の訓が、とてつもなく容易ではないことを教えている
いったい、全歌4540首の内、どれほどの歌が、作者本人の「ことば」なのだろう...

「『牛留鳥』を、私は『ひくあみの』と詠んだといいましたね。それも同じことかもしれません。後の世の人にすれば、水鳥が川面を浮き沈みする方が綺麗なのかも知れません。次句に『なづさひこむと』と訓じれば、尚更です。しかし、それでは耐え切れないほどの苦悩を背負った龍麻呂の気持ちを拾い上げることはできません。あらゆるものから『がんじがらみ』になってこそ、龍麻呂は自死を選んだ。その苦悩を追悼の歌で知って欲しかった。額田王の歌、私も諳んじていますが、その歌は、確か『あがこふるごと』だったと思います。表記は『念』でも、意味としては『恋する』です。だから、残ったままの字を後の人は書写するのでしょうが、それがどう詠まれたとなれば、間違いなく『こふる』なのです。それを、原文が『念』だからと言って、『おもふ』」と訓むのは、私たちの時代の文字の使い方の認識が、すでに理解されなくなっている、ということですね。」

そこで、三中は大伴家持を手招きした
私は、いきなりのことで、少々慌てた...家持には、問いたいことが多くて、まだその整理も出来ていないのに...
しかも、彼は妻である坂上大嬢といたわけではない
彼の横には、紹介もされていないのに、私にはすぐ解った笠女郎がいたからだ

「三中さん、ちょっと待ってください。家持さんには、後で改めてお逢いしようと思っていました。今はまだちょっと...。」

そんな私の狼狽振りにはお構いなしに、家持はいかにも貴公子然とした仕草でやってきた
彼の晩年、私なりに描く野心に燃えた「大伴氏惣領」の雰囲気はない

「家持に来てもらったのは、後の世にいう『万葉集』に収載される歌について、彼の行った作業を知って欲しかったからです。また後で、じっくり語らえばいいことですから、今は彼の関わり、ですね。」

三中は、そう言って家持に合図を送った
家持は、こうした機会が訪れようとは、と感慨深そうに大きく息を吸い、そして静かに吐き出す

「私も、あんなに立派な『万葉集』が出来ようとは、思いもしませんでした。想いを残すことは、ことばにしたそのままを文字にする、それが欠かせないもっとも大切なことです。しかし、私たちの時代には、その手段がありません。どの漢字を当て嵌めても、それを私たちのことばとして訓むには不十分です。だから、私のしたことのもっとも多くのことは、我が一族に伝わる『古歌』の、訓じ方でした。」

と言うことは、「梨壺の五人」以前に、万葉の当時、同じことを「古歌」について大伴家持は行っていたのか...

「それは、藤原濱成と一緒に行いましたが、私は彼ほど暇を取れませんでしたから、結局片っ端から訓点を行い、それを纏めたのが、濱成です。そうそう、『万葉集』の私が詠ったとされる歌、その中には、古歌を私が訓じた歌も結構あります。おそらく、その作業の賜物が、『万葉集』の完成に至ったのだと自負しています。」

そこで、三中が口を挿む

「その通りです。私たちの次の世代、あるいはそのまた次の者たちが、あれほどの歌数を纏め得たのも、家持のお陰です。それなのに、紀貫之は、家持の評価などさっぱりしていません。このことは、私も彼に聞いてみようかと思っています。もしかしたら、貫之は、家持のことを単なる『翻案者』くらいにしか思っていないのかもしれません。」

なるほど、そうであれば、貫之が「古今和歌集仮名序」で、人麻呂や赤人に言及しても、家持のことに触れないのは理解出来る
万葉集中、もっとも作歌の多い大伴家持を、貫之はどんな見方をしていたのだろう...

「ところで家持さん、笠女郎との仲は、実際どうだったのでしょう。私たちの時代で知られるのは、あなたには正妻として大嬢がいます。『万葉集』を読む限り、笠女郎は、あなたが最後には冷たく棄てた愛人のように受け止められています。でも、私には、彼女の歌や、数少ないあなたの応答歌を読むと、そうは思えないのですが。」

家持は、はにかみながら頭に手をやり、「あれは二人で作った創作」だと言う
本当は、彼女と同じ数だけの歌があったようだが、それでは意図した物語りにならない、と

「それで、私の詠歌のほとんどを外しました。どうです、凄く魅力的な女性になるでしょう、あの一連の歌では。」

私がどれほど驚いたか、誰も知ることは出来ないだろう
当時の「戯れ」にしても、現代では「家持と笠女郎」の関係が、どれほど研究者の研究対象として扱われているか...
しかし、この場に笠女郎と、坂上大嬢が相席出来るのは、確かに家持のいうように、「戯れ」なのかもしれない
家持がこちらの席に着いてから、残った笠女郎は、大嬢の母・大伴坂上郎女と大嬢と楽しそうに談笑している
その姿を見ると、私の笠女郎への想い入れは何だったのか、と少し哀しくなる

「では、家持さんの歌のことで、教えていただきたいこと、宜しいでしょうか」

ぶっつけ本番とはこのことだ

私は、頭に廻る、整理されていない家持と「天平八年遣新羅使歌群」の関係を、聞くことにした


Viewing all articles
Browse latest Browse all 71

Trending Articles