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Channel: 残雪、もとめて
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万葉びとたちとの新年会「第十七夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

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毎日のように、時間を遣り繰りしては、この席に着こうとする
それでも、素人故に解らないことを、少しでも事前に頭に入れておこう、と下調べもする
そして、どこをどう歩いてここまで来たのか、まったく意識の外のことで、
席に着くなり、まるで私の不在などなかったかのように、スムーズに時は繋がっていく

今回、大伴三中の語った「ひくあみの」という訓は、現代訓では否定された遺物だと思っていたのだが、
こうして詠った本人が言うのであれば、そこからの解釈を試みてみたくなる

そもそも、「牛留鳥 名津匝来与」を「にほとりの なづさひこむと」と訓じては、それが龍麻呂の帰郷を待つ親の、苦労しながらも元気で帰って来る、というあくまで「待つ側」の気持ちになる
勿論、それも決して不思議なことではなく、今日までその訓で解釈された歌意に不自然さも感じたことはなかった

ただ、「牛留鳥」を「ひくあみの」と訓じれば、その意味が私には大きく変ってくるように思える
「待つ側」の気持ちではなく、大伴三中自身の「無念さ」、そして組織への「不満」さへも醸し出しているように思えてくる

「単純に、『にほどり』を水鳥の一種としてあの場面で詠み、道中苦労しながら帰って来る、そんな追悼の歌など、私は詠みません。そうであれば、まず第一に『牛留鳥』という文字ではなく、ごく自然に誰でも解る『丹穂鳥・尓保鳥・柔保等里能・尓保騰里能・尓保杼里乃』を用いていますよ。ただ、『なづさふ』と次句で詠ったのは、そうした水鳥としての訓もまた含んでのことです。しかし、『牛留鳥』という文字に籠められた私の想いを、後の人は誰一人として理解出来なかったでしょう。」

私は、逸る気持ちを抑えながら、三中の語る彼自身の想いを聴こうとした
これが現代であったら、愛煙家の私は煙草を取り出して、大きくその紫煙を吐き出し、「さあ」とでも言うように身を乗り出しただろう
しかし、この席では、じっと三中を見詰めるのが精一杯だった

「その訓は、旧訓として当初は多くの人がそう訓んでいました。私は無学なせいか、おそらく『なづさひこむと』を導くには、『ひくあみの』より『にほどりの』の方が馴染めるからなのだろう、と思うのですが、何故後世の人が『にほどりの』に落ち着いていくのか、三中さんは、どう思われますか。」

実際、万葉時代の詠歌が、どのように詠まれていたのか、現代ではほとんど解らないと思う
特に助詞や活用語の語尾が表記されていない古歌など、後期万葉時代の万葉仮名で詠まれた歌を参考にするしかない
その場合、これは漢語で解釈し、これは借音で訓み、などと混沌とした訓点作業に挑むその時代の感性によるところも大きいはずだ

私など、単純に万葉の時代に近い時代の方が、現代より本来の詠歌に近いのではないか、と思っていたのだが、
今考えると、それは私の浅はかな思い込みだったのだと思うようになっている
本格的な訓点作業に携わる大前提は、膨大な「古歌」のデータが欠かせない
いわゆる「古点」と言われる「梨壺の五人」の時代、おそらく平安初期の「万葉集」の形になってから百五十年ほど後になって、初めて取り掛かったものだが、その時に約四千首に訓点が付けられたという
それより半世紀前の「古今集」で、「万葉集」に倣って「歌集の編纂」というものの、はたして紀貫之の時代に、「万葉集」がどこまで理解されていたのか...たんに、過去の膨大な「和歌」の存在だけを、古今編者たちは憧憬の気持ちで意識していたのではないだろうか

そこまで考えると、江戸以前の旧訓時代、十分な「和歌データ」を活用できる環境ではなかったと思えてくる
何しろ、少しでも行き詰れば「誤写」だの「脱字」だのと、大袈裟に言えば、そうした恣意性も跋扈し始める
「古今以降」、多くの勅撰歌集でも、「万葉集」を出典とする歌は多く収載されている
しかし、作者の違い、訓読の違いなどもよくある
それほど不正確な「書写」を根拠にするのは、近代までは本質的には同じ環境だったと言える
それでも、先人の研究の積み重ねを基にした近世の学者たち、さらには現代のデータベースを活用した比較研究など、
その点では、現代の方がより万葉当時への実態に近いのかもしれない

しかし、三中はいう
誰も私が何故「牛留鳥」という漢字を使ったのか、理解されていないようだ、と
このことに関しては、現代訓よりも旧訓の方が、その感性の面で理解していたことになる

よく思う
歌の本質は、本当は変化などしない
変化するのは、それを読み味わう側にある、と
つい先日まで、この歌はこう感じていた、というものも、ふとしたことから、まったく違う感じ方をすることも多くある
それは、あくまで読む側の問題であって、歌の作者には関係ないことだ、と思っていたのだが...

「想いを文字に置き換える、ということは、どれほど大変でありまた大切なことか、あなたには是非理解してほしいのです。本来の文字は、そのことで正確に想いを伝える、あるいは意図を理解してもらえる、といった役目があります。この時代にやっとなった『律令』体制下では、そこから出発したもです。しかし、『和歌』というのは、そのまったく逆の要素を持っています。文字にすることで、さらに広範な想いを表現し得る、ということです。人によっては双方の感じ方を同じくする必要もなく、ある人の感じたことを、同じように感じるのが『和歌』なのでしょうか。もう一つ言えば、その訓み方だって、そうです。私がこう詠んだからといって、こうも詠めるぞ、と言われることがあってもおかしくないと思うのです。私たちのよく用いた『義訓』と言われる語については、こうとしか読めない、しかし、意味はこうなんだろうなあ、という面もあります、ただ訓だけを戯れに用いたのではないのです。」

私の理解する「和歌」、とりわけ古典時代の「和歌」とは、思いもしない世界だった
そんな曖昧な詠歌などあるのか、と
しかし、忘れてはならないのは、私たちが自在に読み書きできる「文字」とは違う時代のことだ、ということを...

どんな心境で、どんな時に、私はこの歌を詠んだ
そのような自説を明らかにする後世の「和歌集」とは違って、「万葉集」の場合、ほとんど「詠い放し」だ
いや、その時代に「漢詩」のような「文化」の主流であれば、同じように語り継がれていったのかもしれない
しかし、「万葉歌」は、放置されていた
ただ、それを後世に残すべくルールを作り、編纂した者たち...それが三中たちの子やその孫たちなのだろう

「『牛留鳥』を『ひくあみの』と訓めば、自然と義訓としての解釈になります。『にほどりの』のような単に次句を導く序ではなくなります。追悼歌に相応しい表現だった、と、私はこの歌の最も中心となる語句のつもりで詠みました。
牛は引くもの、鳥は網 (あみ) で絡め獲るもの、この意味を考えて私は龍麻呂の無念さを、そして悲しみを詠ったのです。あの若さで自縊を選んだのは、決して彼だけのせいではありません。班田史生というもっとも多忙な職務で、さらに理不尽な貴族たちからの要求を一身に受け、随分悩んだことでしょう。まさにその職責に縛り付けられ、自身の誇りなど、それ故に解決させる手段を持てなかったのだろう、と私は思いました。ここに龍麻呂自身がいますから、その私の想いが、決して思い違いではないこと、解ると思います。」

三中は、そう言って、龍麻呂の方を見遣った
この場でこそ、にこやかに笑みを見せてはいるが、実際その当時の龍麻呂の心境は...私にも察することができる

「『なづさふ』の語、今では水に浮き漂う、とかいうような語釈ですが、非常に思い悩む、という意味を持つ『なづむ』にも通じるものがあります。私が『なづさひこむと』と書き記したのも、『なづむ-さふ』を基にしています。きちっと詠むならば『なづさみさへこむと』となり、語調を整えるために『なづさひこむと』となりましたが、それが『牛留鳥』を『にほどりの』に結びつけたのでしょう。活用される語の語尾は表記しなかったので、意味上からではなく、私たちの『和歌』の決まり事の一つである七音で詠みました。しかし本来は『なづさみさへこむと』の意味です。それが、龍麻呂を死なせてしまった、私自身への戒めなのです。前句の『つつじ花 にほへる君が』で、あんなに優れた若者なのに、追い詰めてしまった私の悔しさであり、その時の想いが、後の遣新羅使副使としての職務にも、使人たちの境遇に深い想い入れがあったのです。」

大伴三中のその誠実さが、後の「万葉集」を生み出した、私にはそう思える
この龍麻呂の挽歌を詠った八年後に、三中はまたも同じような心痛を味わうことになる
二度も体験すれば、その秘めたエネルギーは...奇跡の歌集への大きな一歩に成り得るものだ

挽歌で三中が詠う結句、「ときにあらずして」...その無念さを、どうしてもかみ締めてしまう


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