「班田司だった頃の部下、龍麻呂の自經死のとき、詠んだ歌ですね。」
それは、巻第三に収載される、大伴三中の「遣新羅使歌群」以外での唯一の詠歌であり、「挽歌」だ
部下の無念の自死を悔やみ、嘆く大伴三中の人となりが、そこに現れている
「今、あなたは言われました。あなたがたの時代では、『にほどりの』と訓じているのだ、と。それはきっと、次の句に『なづさふ』と訓じられる語があって、そこからどうしても『みずどり』を描いてしまうのでしょう。それも、想いの表現を自国の文字で表すことのできなかった私たちの、利点でもあり、また欠点でもあるのですね。」
三中の表情に、私はそれほどの悔しさを感じなかった
むしろ、その「長所と短所」を混在させられることへの喜びのような...
「語る言葉は、それを聞く者には唯一無二のものです。直に聞けば、その心の内はともかく、誰もがその表現されたものを一様に受け取ります。しかし、そこから何を理解するかは、聞き取る人によって、様々な解釈が生じるのも事実です。私たちの時代は、その逆もごく普通にあったのです。」
「その逆」というのは、どういうことなのだろう
他国の文字を借りて残すときの表現に、どうしても限界があるのは、私でも理解出来る
安易な連想だが、外国人が日本風に名前を漢字混じりで書くとき、確かに当該国の発音どおりにはいかないものだ
日本人の発する「外国語」が、まさに「日本語そのもの」であるように、借字時代の万葉人が、漢文の公的文書以外で自国語を書き留めるのは、その時点で多くの読み違い、聞き違いが生じてくるはずだ
「『万葉集』には、義訓と呼ばれる表現手段も随分あります。私は、三中さんが記した『牛留鳥』を、義訓だと思っているのです。仮に「にほどりの」と訓むのであれば、当時でも無理なく訓じられる『丹穂鳥・尓保鳥・柔保等里能・尓保騰里能・尓保杼里乃』などがあるのに、あなたは『牛留鳥』と書かれた。それを、私にはどうしても『にほどりの』とは読めないのです。」
現代でも、「にほどり」は多くの諸注で採られているが、それでもそれが定着してきたのは、それほど古くはない
江戸時代で、鹿持雅澄が唱えて以来なのかな、と思う
それも、「牛留」は「尓富」の誤字だというのと、巻第十五に「柔保等里能奈豆左比由氣婆(ニホドリノナヅサヒユケバ)」と引用させ、やはり「なづさふ」に絡む水鳥である「にほどり」が相応しいのだろうか
しかし、その引用というのは、私には何故「牛留鳥」を、そう読ませるのかの根拠にはならないと思う
何も、難解な「牛留鳥」という文字を使わなくてもいいはずだ
大伴三中は、私を見詰めていた
あたかも、それがそんなに大きな問題なのか、とでもいうような表情だった
「私は、『ひくあみの』と詠みましたよ。『なづさひこむと』に繋がって、あなたがたは、どんな歌意解釈をされるのですか。おそらく『にほどりの』と読む方が、もっとも解り易いからでしょう。しかし、私は『ひくあみの』と詠みました。仰るとおり、あれは義訓です。それ以外にあの漢字を使う意味がありませんから...」
私は、確かに旧訓では圧倒的に多く訓じられている「ひくあみの」なのだが、三中がそう詠んだとは、思いもしなかった
「牛留鳥」を、普通の訓めるはずはない
義訓でしか、この表現を理解出来ないはずだ
すると、あの「挽歌」の解釈は...
後に「万葉集」という形で、後世に残されていく、そのきっかけを作った人の、私たちが目にする最初の歌を、もう一度読み直さなければならない、と強く感じる