奈良時代...私にとっては、それは「万葉の時代」という意味にもなるが、では「万葉の時代」というのは、どんなイメージを説明すればいいのだろう
たんに「万葉集」という、とてもスケール観のある「歌集」の存在を特筆すべき、というだけでない
「万葉集」は、どうして生れたのか
それは、日本の歴史観にも関わるように思えてしまう
平安時代の、敢えて言えば「古今の時代」というのと、まったく意味合いが違う
「古今の時代」と言えば、私の認識ではあくまで「和歌」の分野での画期的な時代になる
しばらくこの「新年会」の席を外していても、その間の大伴三中たちは、まるで時間が止まっていたかのように、その振る舞いに不自然さは感じられない
「三中さん、あなたたちの『歌群』創出の意図は、私にも理解出来ました。しかし、それから長い時を経て、現代の私たちが目にする『万葉集』の形になったのは、いったいどんな意図があったのでしょう。あなたたちの縁の人たちは、ただただ『天平八年遣新羅使』人たちへの鎮魂のためではなかったはずです。そもそも、あらゆる階層の人たちの詠歌を網羅する目的と言うのは、少なくとも三中さんたち使人の方たちのことを慮ってのことではないように思えます。」
いくら和歌の産声を聞き始めたころとはいえ、何かの意図をそこに託すのは、あまりにも無謀な気がする
母体と成るべき「和歌」それ自体が、まだまだ十分な力を持っていない時代のことなのだから...
何しろ、この時代は漢詩隆盛の時代だ
高級貴族や官僚たちにとって、和歌の嗜みが、昇進に役立つものでもなく、言ってみればそうした高級官僚たちが、それほど夢中になり、競い合うように詠った時代ではなかったはずだ
下級官人であった大伴三中たちが、いくら和歌に想いを託そうとしても、そこには限界がある
「私たちの子、そしてそのまた子たち...子孫がどんな意図で、あなたたちのいう『万葉集』を作り上げたのか、それは私にも確かなことは解りません。ただ、一つ言えることがあります。それは、菅原道真や紀貫之の時代になって、ようやくその環境になった、ということです。その環境とは、私たちの『歌集』への意図に気付き始めたのでは、という。」
三中が言うには、彼らだけの「歌群」では、決して奈良時代の本当の姿を後世に残せなかっただろう、
彼らの子孫たちの無謀とも思える「万葉集」の編纂こそが、奈良時代を甦らせたのだ、と
「菅原道真に訊けば解りますが、彼らの時代では、すでに我々の歌というものは、ほとんど理解されていなかったといいます。いや、歌を理解云々というのは誤解があります。歌そのもの、つまり我々の歌の文字が、まず訓目なかった、と言うべきでしょう。」
菅原道真 [承和十二年(845)-延喜三年(903)] は、古今和歌集の成立 [延喜五年(905)] 前になる寛平五年(893) に、「新撰万葉集」を天皇に献上された、と言われる
この「新撰万葉集」の面白いところは、「和歌」を漢詩に翻案して対にしているところだ
よく考えると、おかしなもので、本来の自国語での詠歌を、わざわざ外国語に翻案しなければならないというのは、それほど「漢詩」の置かれている立場が、少なくとも和歌よりも普及していることを物語っている
しかし、この時期すでに「和歌」というものの隆盛も始まっており、それが数年後の「古今和歌集」として初めての勅撰歌集に結実する
余談だが、当時の国家運営を担う二人、菅原道真と藤原一族の若き惣領藤原時平
私は、大伴三中の言いたかったことは、この二人のことなのだろうか、と思った
当代随一の博識で、律令体制の根幹である「公文書」を漢文で維持させる道真、それに対して、国家の自尊心を盛り立てようと、全文を「平仮名」で書き残す「古今和歌集」の勅命、
その勅撰和歌衆の推進の原動力となったのが、藤原時平だ
ここに、「公文書」が、初めて「漢文」ではなく「日本語」で表記される画期となった時となった
つまり、古来から詠い継がれてきた「和歌」が、初めて国家に認知された、と言える
皇族や官人、あるいは市井の人たちの間では、すでに「余興」のような感じで、「和歌」は詠われていた
しかし、当時使われ出した「平仮名」表記を、やっと国家運営の一つの手段にしたのが、まさに「古今和歌集」の誕生だった
「それこそが、私たちの子孫の目指したものだった、と思うのです。」
大伴三中は、やや誇らしげに話し出した
「私たちの時代では、『和歌』はあくまで人の心の嘆き、悦びなど、純粋に『人そのもの』を浮き上がらせていました。しかし、ご存知のように、自国語の表記もままならない時代のことです。大陸の文化とも言える『漢字』を借用しての表現には限界があります。ただし、語解しないでください。私たちは、それをも逆手にとっていたのですから...。」
最初の勅撰歌集「古今和歌集」が、全文「平仮名」で書き得たのは、その下地がなければならない
その序である「仮名序」でも、「万葉集」のことを盛んに褒めているのは、「万葉集」なくして「古今和歌集」は生れなかった、ということなのだろう
大雑把に言えば、本格的な「万葉集」の訓点は、それから半世紀後 [天暦五年(951)] の「梨壺の五人」に依らなければならない
つまり、「古今和歌集仮名序」で紀貫之が述べる「万葉集」の実態を、どこまで素直に受け止めていいものか...時期の重なる道真の言葉もある
私は、ようやく三中に訊くべき「牛留鳥」の訓を確かめるタイミングになった、と思った
それでも、三中は、まあ聞きなさい、とでも言うように語りを続ける
「私たちの歌が、誰にでも読めるようにしたのは、確かに後の人たちのお陰ですが、その伏線になるのが、後に言われる『万葉仮名』の存在です。それが『万葉集』と言われる歌集の、最終的な成果だと、私たちは思っています。勿論、それ以上に子孫たちの思惑はあるでしょうが、一番解り易いのは、『一音一字』で歌を詠い、書き残すことができる。それが、後の『古今和歌集』を生ませたのだと自負しています。」
と言うことは、紀貫之たちの言う「万葉集」は、そうした限られた歌しかなかったことになる
そして何より不思議なのは、「万葉集」で名を多く載せる大伴家持については、貫之は何一つ言及しない
このことは、後で家持や貫之と逢ったとき、どうしても確認しなければならない
「そう言えば、『柿本朝臣人麻呂歌集』からの収載歌が、かなりありますね。もっとも、三中さんたちは、それが『万葉集』に収載されていることは、当時知らなかったと思いますが。確か、三百七十首ほどあります。そして、それらをどう訓むのか、正直私には解らないのです。ただ、活用語の語尾、あるいは助詞らしき漢字が表記されている歌と、そうでない歌、その二種類があって、それを読んで歌意を理解するには、必然的に『漢字』の持つ意味が手掛かりになります。ならば、それらの歌は、純粋に『和歌』と言えるのでしょうか。」
次第に「牛留鳥」に近づいてきた、と思った
「たとえば、先ほど言いました二種類の歌ですが、現代では語尾や助詞の表記がされているものを『非略体歌』、表記されていないものを『略体歌』と言いますが、それぞれ一首ずつあげてみましょう。」
巻第七 1275 非略体歌
行路
遠有而 雲居尓所見 妹家尓 早将至 歩黒駒
遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒
とほくありて くもゐにみゆる いもがいへに はやくいたらむ あゆめくろこま
「この原文『遠有而雲居尓所見妹家尓早将至歩黒駒』には、『而・尓』という助詞が表記されているので、比較的読みやすく、歌意も解りますが、それでも、江戸時代...三中さんたちの時代から約九百年ほど後の時代のことですが、この何となく解る歌意でも、やはり訓については、多くの人が迷い、その江戸時代になって、ようやく私たちが目にする訓に落ち着くのです。ただ、この歌には、こんな考え方もできます。」
それは、巻第十四の「東歌 3460」で、ほぼ同じ歌を「万葉仮名」で載せていることだ
東歌
14-3460
麻等保久能 久毛為尓見由流 伊毛我敝尓 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
ま遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか至らむ歩め我が駒
まとほくの くもゐにみゆる いもがへに いつかいたらむ あゆめあがこま
ここまでは「小異句」としての「異伝」と思うのだが、問題は左注にある
「柿本朝臣人麻呂歌集曰 等保久之弖 又曰 安由賣久路古麻」
この歌、「柿本朝臣人麻呂歌集」に、「とほくして 、あゆめくろこま」とある
これ自体も「小異句」と言うのは、私には無理なように思える
では、どうなるかと言えば、「万葉集編者」は、「人麿歌集」の当該歌「遠有而」を、「とほくして」と訓じたとしか思えない
確かに現代訓の「とほくありて」の方が、漢字表記の訓み方としては自然に訓めるが、万葉人は、「とほくして」と訓んだ
後の訓読などお構いなしに、その時代に近い彼らには、それが自然に訓めるものだったのかもしれない
あるいは...「句意」が先行したものか
要は、「遠くにある」という意味さえ伝われば、と
もう一つ、略体歌を紹介してみた
巻第七 1301 略体歌
譬喩歌 / 寄衣
紅 衣染 雖欲 著丹穗哉 人可知
さすがに、助詞などが省かれると、漢字の持つ意味でも、なかなかすんなり理解は出来ない
現代訓
紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき
くれなゐに ころもそめまく ほしけども きてにほはばか ひとのしるべき
先ほどの「非略体歌」と違い、この歌の訓には、古注釈にも様々な訓を主張する
代表的なものをあげると
仙覚「万葉集註釈」 鎌倉時代
「クレナヰニ コロモハソメテ キホシキヲ ニホヒヤイテム ヒトノシルヘク」
「クレナヰニ コロモヲソメテ ホシケレト キテニホハヽヤ ヒトノシルヘキ」
契沖「代匠記」 江戸中期
「クレナヰニ コロモヲソメテ ホシケレト キテニホ(ハヽ)ヤ ヒトノシルヘキ」
(コロモソメマク ホシケドモ)
鹿持雅澄「万葉集古義」
「クレナヰニ コロモシメマク ホシケドモ キテニホ(ハヾ)ヤ ヒトノシルベキ」
(セバ)
いずれも、第四句の「穂」の後の二字落字(羽者)を既成化しているが、それについては、雅澄は他動詞サ行四段の「にほす」を根拠に、その已然形「にほせ」とも併記している
ただ、この略体歌の歌意を、まず日本語に訓じて読むなど、それほど意味をなさなく思ってしまう
漢字表記そのままで、歌意をある程度は理解し得る
その上で、「やまとうた」らしく訓じる、何だかそんな手法のようにも思えてくる
そもそも、「万葉仮名」で、訓を限定されない歌においては、漢字表記も単に「借字」ではなく、その漢字の持つ意味までも、作者は懸命に盛り込んだのだろう
そうなると、
「三中さん、このように『万葉集』の大方の訓は、江戸時代まで非常に曖昧な状況だったのです。だいたい、契沖や鹿持雅澄あたりで、現代訓への影響は一応決着しますが、それが必ずしも万葉人が、そう訓じて詠った、と言う訳ではないのです。たとえば、先ほどの『略体歌』を採れば、契沖などそれまでの旧訓である『コロモヲソメテ ホシケレド』と言うのは『俗語』だから、と言って『コロモソメマク ホシケドモ』と改訓します。江戸時代の人間の感性で、それが通るのです。何しろ当代切っての万葉学者がそう言うのですからね。こんな風に、それが現代に定着する歌も多いのです。」
私の説明を一通り聞くと、大伴三中は、意外そうな顔をして私を見た
「歌を詠む者は、確かに自分なりに訓じていたはずです。でも考えてごらんなさい。私たちの時代の言葉というものは、それを文字に書き残す手段を、外国の音で入ってくる漢字を当てているのですよ。まったく同じようにそれを日本語で表記できるのでしょうか。だから、どうしても漢字の本来の意味をも用いなければなりません。そうすると、意味は通じるが、言葉が聞き取れなくなったり、逆に言葉通りの表現を漢字でしようとすると、その文字では正確に訓めなくなったり...。そんな時代だったのです。それを『一音一字』という手段を、万葉仮名として気付いてから、私たちの言葉が、ようやく間違いなく伝わるようになったのです。しかし、それでも、借字はあくまで借字であり、その漢字音でさえ、幾種もありましたから、そこに決まりをつけなければなりませんでした。その過程で、万葉集は編纂されていったのです。だから、私たちの時代では、まだ混沌とした『言葉表記、表現』の出来上がっていない時代でした。」
それは、「牛留鳥」のことをも言っているのだろうか
私は、思い切ってそれを尋ねた
「三中さんの挽歌に、『牛留鳥』という表記がありますね。私たちは、『にほどり』と訓じていますが、あなたは、どう訓じて詠んだのですか?」
それは、この漢字表記の意図を知りたかったからだ