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Channel: 残雪、もとめて
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万葉びとたちとの新年会「第十四夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

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ふと目覚める
随分とご無沙汰している「新年会」なのだが、目の前の顔ぶれ、そして「会場」の透き通るような空気は、全く変らない
そう、「時」までも「透き通って」いる

私としては、不意に席を外したことへの言い訳から、と思うのだが、あたかも私の不在中は、時間が止っていたような気さえする
それでも...

「三中さん、私がこの場にいることが、どれほどの夢心地なのか、お解かりでしょうか。あなたたちの時代に詳しい人や、和歌に通じている人たちにとっては、こんな好機は奇跡のようなものでしょう。しかし、私のような門外漢が、ただただ私たちの時代に知られる『万葉集』が好きだからと言って、本来なら一方的に話しを聞くしかないのです。愚かな質問ばかりだとは思います。それでも、過去でも現在でも、また未来であっても、人が息づいていたその証しが、残念ながら私には、あなたたちの残した『万葉集』なのです。」

ここまで、やっとの思いで言葉にしたのだが、まさに言い訳の伏線を張ってしまった

「現代では、生きていた人の、本当の声を電気という技術で後世にも残していけます。しかも、それだけでなく、国家自体の歩んで来た歴史というものも、その当事者の声だけではなく、対峙し合う『事実』をも残せてしまいます。私たちの時代の『記録』というものは、そういうものなんです。しかし、三中さんたちの時代は、きっとそうではなかったと思います。残せるもの、残すべきもの、その意識というものは、どうなのだろう、と思っています。これまでまったく疑問にも思わなかった『万葉集』という歌集の存在。それが、後世に残ることを願ってのことだったのか、という...あなた方にお逢いして、話していくうちに、そんな気持ちになってしまいました。これまで伺った範囲での、私の感じ方では、ようやく『律令国家』として公文書の重要性に目覚めた時代、しかし、その運用にはまだまだ不具合が多かったのでしょう。そんな時代の『歌集』編纂の意味を、現代の私たちは過剰に考えていたのかもしれません。と言うのも、三中さんご自身が仰った、『天平八年の遣新羅使』たちの歌群こそが、原型だというその理由です。それまでにも、貴族や、あるいは風変わりな官僚たち、和歌には親しんでいたと思います。しかし、『歌集編纂』の発想、そしてそれを成し遂げようとする気運は、私の感想では、三中さんたちの『遣新羅使歌群』が発端ではなかったか、と思うのです。それまでは、気ままに戯言で詠っていたような古歌謡の類から、自分の想いをこめて詠うように...それでも、記録までではなく、何かのきっかけで歌い継がれ...それが、『人麻呂歌集』に多く見られる『和歌のような』記録の原形ではないかと、思っています。」

そこまで話して、何だか失礼なことを言ったかもしれない、と自分を恥じた
「万葉集」の質を云々する前に、この歌集がこうして千年を超えても親しまれているという事実、その想いを伝えられなかったのではないか、と

しかし、大伴三中や他の「遣新羅使人」たちの表情を見ると、意外と穏やかだった
まさか、現代に伝わる「万葉集」は、あなたたちの功績ではない、とでも受け取られかねないような私の発言が...思い過ごしだったのかな、と思った。

大伴三中が、揃っている「使人」たちの前で、私の手にしている資料を見せてごらん、というように指を指した
その資料とは、私が今回何も根拠もなく持参していた諸家の系図集、そして公卿補任、下記補任だったが、今見ると、どうしてこれを手にしているのか、それを思い出せない

三中は、しばらくその資料を眺め、順次臨席に送っていくと、

「あなたたちの資料というのは、随分と読みにくいものですね。これらを検証する作業など、おそらく不可能でしょう。何しろ、補完する資料それ自体が十分ではないのですから。それに、前にも言ったのですが、私たちの『歌集』は、誰のため、と敢えて言えば、同族たちのためでした。それは、あなたのいうように、確かに『万葉集』のきっかけに過ぎなかったと思います。これを形にした者たち、この資料で探してみましたが、実際に関わった者たちは、載っていませんね。」

それは、誰が「万葉集編纂」に関わったのかを、知っているということだ
三中は、ときどき資料に指を這わせると、雪連宅満や秦間満たちに、確認するかのように小声で話していた
それが、何を物語るのか、私には見当もつかなかったが、記載されている官人たちの名ばかりでなく、その出自まで探ろうとしているようだった

そして、悠然と資料から顔を上げると、

「私の在命中は、『歌集』いや『万葉集』という名さえもありませんでした。『遣新羅使人』たちの数十首の「歌々」だけです。後になって、『万葉集』という存在を知ったときも、その時点でもあなたの時代の『万葉集』にはほど遠いものでした。しかし次第に『歌集』の形が作られてきたのは確かです。その連中が誰なのか、もうあなたにはお解かりだと思います。ただ、残念ながら、あなたの時代の資料には、ほとんど載っていない官人たちです。」

そう言いながら、三中はその周囲に座っている「天平八年の遣新羅使人」たちの顔をゆっくり見渡した

「それは、ここにいる『使人』たちの子、孫...子孫たちなのですよ。彼らが、私たちの『歌群』を基に成し遂げたのです。私たちの当初の想いから自由に新しい文化として、成し遂げたものです。それを後押ししたのが、大伴家持や藤原濱成ですが、彼らも完成した『万葉集』を見ることはなかったのです。」

「三中さん、今ね、私はもう一度第一番から万葉歌を読み始めているのですが、この歌集編纂の思想というか哲学のようなものを、その流れに感じ始めているのです。大雑把に言えば、収載歌の時代の幅の大きさに、歌集が本来持っている方針、方向性のなさに原始的なものを感じていたのですが、それが改めて読み直して見ると、或る時代に集中している歌群の中に、異質な時代観を持つものがあって、それが稚拙さ故のものかと思ったら、そうでもない、とさえ思うようになっています。」

その通りだった
編纂時期の段階を基本として追うなら、こうした混沌とした掲載はしない、いやできない
「天平八年遣新羅使歌群」は、その半数以上は編纂されて挿入されたものだと思う
まだ三中から、その実数は教えられていないが、きっとそのはずだ
そして何より、三中が『牛留鳥』の表記を、どんな言葉で使ったのか...私には、そこにも意味があるように思えてならない
丈部龍麻呂の挽歌で使った「牛留鳥」、この挽歌から、三中の人柄を知る言葉は、一気に「遣新羅使歌群」へと飛んでしまうのだから...

「名は知り得なくても、どんな流れで『万葉集』が成ったのか、そしてそれに関わった者たちの素性は、きっと浮んできますよ。実際私たちも、それを望んでいるのですから...。」

私が知ることを「望んでいる」と言うのだろうか
公文書にその名が残らない者たちの素性を、私がどうして知り得よう
いや、別の事績で名を載せられていることだって考えられる

少なくとも、十世紀半ばの「梨壺の五人」により訓読が行われた時は、今の形に近い「万葉集」だった
それは、その半世紀前の菅原道真、紀貫之のいう「万葉集」が、今の姿であった、という確証にはならない
それよりも更に時を溯る平安初期...無名の「遣新羅使人」たちの子孫が、成し得た壮大な「歌集編纂」

大伴三中は言う

「それがどんな者たちなのか、きっと浮かび上がってきます」

何をどうすれば、浮かび上がってくるのか...

 


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