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Channel: 残雪、もとめて
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万葉びとたちとの新年会「第十三夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

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万葉びとたちの時代、それは飛鳥奈良時代のことをいうのだが、その時代が何故こうも私を魅了するのか...
「万葉集」という「奇跡の歌集」の舞台となった時代、それだけではない
乱暴な言い方だが、「国」という概念が、始めて理解出来た時代だと思う
この時代に成った「正史」と言えば、「日本書紀」が挙げられる
言い換えれば、対外的な「国家」を創り出した時代こそが、「奈良時代」だったのだと思う
何より、初期の「律令国家」を形づくったことは、そこに「公文書」の「意義」を見出したからだ
すべての国家運営に関わる「ルール」を文書化し、さらに指示命令などの文書記録の義務
これが、「国家運営、存続」の大前提となる

なにやら、現在の諸問題にリンクしてしまうが、「公文書」というものは、それが国家の根幹に関わるもの、ということを、奈良時代の人たちは血の滲む思いで成し遂げたと思う

だからこそ、その時代の「万葉集」という、現代でも語り継がれる「歌集」が、私たちの想像もつかないほどの環境下で詠われ、なおかつ綿々と息づいているのには、今更のように驚かされる

そんなことを、今目の前にいる「天平八年の遣新羅使」たちを一人ひとり見遣りながら思っていた

この外交団の正式な「帰朝報告書」というものは、その存在すら知られていない
正確に言えば、現時点でのその資料は、まだ認知されていない
あるのかないのか、そんな議論をすることもなく、記録の有無に限れば、「ない」という前提で歴史は語られている

しかし、先に述べたように、飛鳥時代の末期から奈良時代初期にかけての、「律令国家」へのエネルギーは、こうした「帰朝報告書」をおざなりにするとは思えない

先に、大伴三中が語っていた
大使を亡くして帰国したとき、その責任者である自らが「帰朝報告書」を朝廷に提出した、と
当然だと思う
そこには、外交団としての成果が、不首尾に終ったにしろ書かれているはずだ
それが、残らないというのは、時の権力側に不都合な件りがあったからだろう
それ故に、三中たちの「航海上の詠歌」の公表につながり、そこに描かれる外交団本来の使命感とは掛け離れた感のある「悲愴感」漂う「歌物語り」に仕上がった
私は、そう感じていた

少なくとも、その時点では、歌集「万葉集」という構想はなかったと思っている


大伴三中は、私がしばらく様々なことに思いを巡らせていると、それを感じ取ったように話し出した

「一つ、あなたに訊いておきたいことがあります。」

そう言って、周囲の「使人」たちの同意を得るかのように確認の仕草を取る
みながそろって頷くと、三中は口を開いた

「あなたたちの時代における『万葉集』という歌集は、私たちの時代では、考えられないほどの文化書物の一つとなっていますが、その認識に疑問はないのですか?」

私は、思い掛けない問いに、言葉も出なかった
ただ、「う~ん」と唸るだけだった
まず、その真意を確認せずにはおられなかった

しかし、その言葉を制するかのように、三中は右手をそっと自分の顔の辺りまで上げて続ける

「私たちの時代で、『和歌』という文化は、ほとんど注目されていません。それが意味するのは、私たち帰国した者たちで、あの航海を舞台に詠ったのは、決して何かの訴え、というのが目的ではない、ということです。誰も見向きもしない訴えなど、何も意味などありません。敢えて言えば、『和歌』を解する者たちへの、我々の心情の吐露になるわけです。その者たちとは、大伴一族であり、阿倍一族であり、他にこの外交団に関わった氏族たちの一部の者たちです。そこで、あなたにお訊きしたいのです。『万葉集』という『歌集』は、誰のための『歌集』だと思いますか?」

私は、いっそう返答に窮してしまった
誰のため、などと考えたこともなかった

「あれだけ幅広く採集されている『和歌』ですから、貴族に限らず誰もが歌に親しめる。そう、誰もが、ではないですか。」

自分でも、的確な答だとは思ってはいなかったが、当たり障りのない返答だろうとは思った

しかし、三中は即座に首を振った

「それは、きっと貫之の時代以降の見識を言っているのでしょう。それ以前など、『和歌』を顧みる人たちは、ほとんどいませんでした。だから、私たちの時代の『和歌』と言うものは、決してあなたたちが思うような崇高なものではないのです。語句を練りに練って一首を詠う、などという高尚さはなく、その詠い手の想いが綴られる、そこに自分を見つける、あるいは見詰めるという単純な行為でした。後世では、駄作などと言われる歌も多いのは、そのためです。何しろ、高尚な『和歌』ではなく、自分が満足できればいい、という類の歌も多くあります。もっとも、私たちが当初に持ち出した『使人』たちのは、それほど多くはありません。しかし、それが基になって、その気持ちに沿うように歌を加えたり、また『人麻呂歌集』のように、とても難解な漢文もどきの歌さえ、都合よく解釈して用いたりしています。後で人麻呂さんに訊いてごらん、あの『柿本人麻呂歌集』は一体、何なのか、と。」

ここまでの話しでも、すでに私にはついていけなかった
「万葉時代」が、「和歌」の不遇の時代だとは、すでに承知されていることだ
だからと言って、誰も顧みることはない、とは...
それに現代の私たちの「万葉観」では、当時の「万葉世界」は、やはり「和歌創生」の画期的な時代だとは思うのだが、そうでもない、という

「自己陶酔」...作者たちの自己満足が多分にある、ともいう

ここに二人の「秦氏」がいる
「秦間満」と「秦田麻呂」...「秦氏」が、決して同一の祖先を持つ氏族でないことは、何となくわかってきた
いわゆる「職能集団」の総称の意味合いが強い、と
しかし、「万葉集中」に、それほど多く見られない「秦氏」が、二人私の目の前にいる
しかも、三中が言うには、「遣新羅使歌群」の最初の詠い手が、「秦間満」だという
ここに、手掛かりがあることは、私にも解ってきた

そして「柿本人麻呂歌集」のこと
そう言えば、「遣新羅使歌群」に「人麻呂作」もまた多く登場する
三中の時代では、「人麻呂」「人麿歌集」というのは、同義語ではなかったのか...

大伴三中が問うた「誰のための万葉集」なのか...濱成や家持の出番は、なかなか来ない

 


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