大伴三中たち、万葉びとたちから多くの課題をもらった
しかし、浅学の私には「思考の手順」というものを身につけていないので
求めようとする「何か」が、いつの間にか視界から消えたり暴走したり...
「遣新羅使歌群百四十五首」を列記して、何とか「遣新羅使歌群」を理解しようとするが、
三中の心情をそこに持ち込むと、今まで感じていなかった視界が目の前に広がってくる
再び「新年会」に臨もうとする私を、「夢物語」の主宰者(誰なのか解らない)が、「近江に行けばいいのでは」と、いう
私が、奈良とともにとても愛着を感じている街・近江八幡
そこで、ふと思い出された人麻呂の歌がある
巻第三
268
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
あふみのうみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ
この歌は、かつての都であった「近江朝」の荒都歌として有名な歌だが、
思えば、「遣新羅使歌群」で、「當所誦詠古歌」に「柿本人麻呂羈旅歌」の異伝歌が数首載せられ、他にも人麻呂の「詠歌」は、この「遣使人」たちには好まれて登場する
ブログで、「人麻呂羈旅歌八首」との絡みを随分追いかけたこともあるが、それもいつものように中途半端に中断し、今日に至っている
それが、「羈旅歌八首」ではないのだが、「柿本人麻呂」という「万葉びと」たちにとっては忘れることの出来ない存在が、今になって私自身もっとも重要なことのように思えてきた
何も「近江」と人麻呂が、「飛鳥」以上に密接だというのではない
むしろ「近江」の人麻呂をイメージすることは、かなり難しい
それでも、「近江」という「ヒント」なるものを感じたのは...
私にとって、「近江」は「近江八幡」という古風な、まるで故郷の松江を思わせる、こじんまりとした町並みであり、決してかつての都「近江京」の姿はしのばれない
それに、実際の「近江八幡」に横たわるのは、戦国末期の「豊臣秀次」による治世の歴史観が強く感じられる
それでも、近江八幡に私が何度も足を運ぶのは、「万葉集」とはまったく関係なく、ただ故郷の面影を重ねるだけのことだったのだが...
今回の「近江行き」の示唆に、人麻呂歌を思い起こされたのは、「淡海乃海 あふみのうみ」という人麻呂詠歌の「あふみ」その語だった
しかし、この歌をじっくり読み直してみると、「遣新羅使歌群」との関係性はおそらくまったくと言っていいほどないのだが、私はどうしても「関連性」を見てしまう
その一端が、「遣新羅使歌群」に盛んに誦詠される「人麻呂歌」の存在がある
「遣使人」たちにとって、いや「大伴三中」にとって、「柿本人麻呂」は、どんな存在だったのだろう
人麻呂の「官吏」としての実像は伝わらない
彼の存在は、「万葉集」の中でしか私たちに伝わっていない
紀貫之の時代には「歌の聖」とまで称される人物の、その実像を三中は、どのような人物像として抱えていたのだろう
大伴三中が、後世のいう「歌人」の類の扱いなら、少しは理解もできるが、三中の肩書きに「歌人」は見当たらない
余談だが、私の知る限り、雪連宅満(宅麻呂)は、「万葉集」で一首しかその名を残さないのに、「群書類従系図部集」では、「歌人」とも肩書きが添えられている
「官人」の三中が、意図的に「歌人」人麻呂を「遣新羅使歌群」のベースに沿えたのは、「人麻呂」ならではの意味が無ければならないはずだ
「百四十五首」を、専門家たちの諸説では、少数派ではあるが、次の「悲話応答歌六十三首」と絡めるものがある
私も、まったく別の「物語」であり、「巻第十五」は、「遣新羅使歌群」が単独で目論まれた「歌群、歌集」だと思っていたのだが、昨日の「近江八幡」でいろいろと想いを巡らせていると、そうか、と気付かされるものがあった
「悲話応答歌六十三首」の底辺にあるのは、「悲別」だ
その共通点はたしかにある
しかし、そうした「感情的」な「部類」ではなく、ここにあるのは、間違いなく「朝廷、体制からの締め出し」にある
「遣新羅使」を「死地への懲罰」とし、「悲話応答歌」の夫婦悲別が「具体的なみせしめ」に見えてしまう
このベースがあってこそ、「巻第十五」一巻そのものが、二つの「物語り」要素を同一性で理解出来る
ならば、人麻呂がやたらと登場する「遣新羅使歌群」における「人麻呂」に、三中やその編者たちは、どんな「同一性」を感じていたのだろう
そのことを、三中は私に教えたかったのかもしれない
三中がよく口にする言葉があった
自分たちの存命中は、その意図を誰かに託せすことが出来ても、死後このようにその成果を目の当たりにして、そこに充分でないと感じるものがあっても、死後ではそれに口出すことは出来ない、と
そのもどかしさは、私にも理解出来る
私たちが、今もなお「万葉集」を「謎多き歌集」と捉えるのは、三中たちの編纂のきっかけの時代から、随分経っての「編纂」なのだから、そもそも「動機」と「結果」との間にしっかりとした「意志」が迷うことなく伝わっているはずもなく、多くの矛盾も抱えながらも、その修正は顧みられることもなかった
そのうちに、次第に「漢字」の「日本語」は、その「訓」の正しい伝わり方も損なってしまい、気付けば誰も容易に訓めない「万葉集」になってしまった
「遣新羅使歌群百四十五首」、その内で実際の三中が残した「遣新羅使」歌は、どれほどあるのか、
また、「遣使人」たちが、帰国後加えた歌や、「遣使」以外の者たちの歌はどれほどなのか...
漠然と「遣新羅使歌群」として、「天平八年遣新羅使」の「航海歌日誌」というふうに無責任な言い方をしていたが、実際の「航海日誌」的な歌よりも、その「航海」にともなう「妻や恋人」への別離の「哀愁歌」が多い
ごく少数の「使命感」をモチーフにした「詠歌」など、ほんの数えるほどだ
これは「航海歌日誌」ではなく、「悲別歌集」とでも言いたくなるものだ
こうした「百四十五首」中の仕分けを、三中は私に課している
あたかも、そこに「巻第十五」の原型があるかのように、そして、それが「万葉集」の「産声」だとでも言うように...
昨日、八幡山の展望台から、琵琶湖から「比良山系」の雪稜を遠望した
近江京の荒廃を、人麻呂はどの視界を目にして詠ったのだろう
そして、人麻呂の「いにしへおもほゆ」とは...
そんなことを、しきりに想いながら、心落ち着く「八幡堀」を歩いた...珍しく人の姿の入り込まない「八幡堀」を...
琵琶湖の対岸の岸辺がかすみ、雪稜の山裾との境が見えない光景...「獏とした万葉」そのものだ