「情を慟ましめて思ひを陳べ」という悲痛な想いに、私は過剰なほど拘っているのかもしれない
この「巻第十五遣新羅使歌群百四十五首」については、ブログの方で現在も関わり続けてきたものだが、
時に空を眺め、雲や風に心を澄ますと、こうだ、と思い込んでいたものが、ふと消えてしまうことも多く経験する
こうして「新年会」という「万葉びととの夢語らい」を空想していると、唐突にも思いもしなかった景色や情景に出遇う
今も、大伴三中に対するイメージを少しずつ肉付けして「万葉の情景」を浮かべると、つい先日まで感じていた「歌意解釈」とは、違った見方を図らずもしてしまう
「新年会」に臨む前に、「万葉びと」たちへ、何を訊こうかと計画的な案もなく、ただただ思いつくままに尋ねることばかりで、それが自身の「歌意解釈」の「確認」するという傲慢な気持ちもあったのは確かだ
だから、通説...少なくとも異論のない解釈を「話題」にするつもりはなかった
しかし、少しでもその「詠歌」の背景に別の感じ方の要因があるのなら、この場で当事者たちに確認したくなるものだ
勿論、そこに意外な「展開」を過大に求めてはいけない、という自覚はある
何しろ、私の「万葉集」など、素人がたまたま少しばかり「深入り」した程度のことで、学問的に何も根拠のないことだから...
ただ、これまで語られたものは、私が想像する以上の展開をも見せてくれる
決して、初めからそれを見越して問うているのではなく、「新年会」の合間に「万葉集」を読み直していると、「あっ!」と気付かされるものも、また確かにある
それを訊いて、思わぬ展開へ私自身が、頭の中で整理しながら彷徨う...それが、この「新年会」になっている
「遣新羅使歌群」の一首ごとの「検証」は、今は中断していても、当然続けて行こうと思うが、もう少し「万葉びととの語らい」を楽しんでからになりそうだ
掲題の「情を慟ましめて思ひを陳べ」に、拘って【到壹岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首[并短歌]】を読み返してみた
すると、これまでまったく感じなかった「情景」が浮んできたのは、やはり大伴三中の語り出す「想い」に触れたからだろう
これまで、雪連宅満の「挽歌三組九首」の無名作歌、最初に詠われる歌は、三中の大使・阿倍朝臣継麻呂の死に対して追悼された「挽歌」だと私は思っていた
まだ「検証」もしていないのに、感覚だけで、そう感じていたのだが、今もっと突拍子もない思いに駆られている
それは、あの三組の「挽歌九首」自体が、すべて「大使への追悼歌」ではないか、という気持ちだ
題詞に「連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首[并短歌]」と、「一首并短歌」とあるにも関わらず、実際の収載は「三首并短歌」となっている
そのことは、諸説があり、それでも「雪連宅満への挽歌」、という前提は覆ることはなく今日に至っている
しかし、今までずっと感じていた「挽歌三組九首」の悲痛の度合が、一官人の死という枠を超え、「使節団」全体の「悲痛」に相応しいと感じてしまうので、そこから最初の「無記名作歌」は大伴三中の大使への「追悼歌」かもしれない、とそう思い込み味わおうとしていたが、それに伴う大きな疑問点は、「題詞」ではなく、何故「無記名作歌」がトップに収載されるのか、ということと、「使節団」のトップの死であれば、何故堂々とその意趣で「題詞」を設けなかったのか、ということにある
しかし、それも大伴三中の「想い」を聴いていると、私も次第に理解出来るようになった
そうなると、続く二組の「挽歌六首」もつい深読みしてしまう
そこで、今の私の頭にもっとも響くのが、これら「二組六首」もまた、「大使への挽歌」ではないか、と...
そう意識して何度も読み返せば、やはり「一官人」への追悼歌にしては、その後の「使節団」の「運命」への不安が、個人的なものではなく、どうしても「天平八年遣新羅使節団」の「悲運」に象徴されているように、強く感じてくる
そうなると、あの「到壹岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首[并短歌]」という「題詞」は何だったのだろう、と思うのだが、本来はその当地での「宅満の挽歌」は詠われたと思う
しかし、この「歌群」を世に出そうとする時点で、題詞を敢えて残したまま「大使の挽歌」を挿入した
当時は、大伴三中が「無記名作歌」として詠ったものが「大使の挽歌」で詠われ、続く二組六首は、大伴家持が「大伴氏」の危機に際して一族を引き締め、この「歌群」が世に出るきっかけとなった二十年後に、詠われたような気がする
当然、「題詞」に厳密に呼応させることは出来なかったの、それも意図的ではないかと思う
何故なら、「雪連宅満の挽歌」は、実際に詠われたと思うからだ
その「挽歌」を「大使の挽歌」に差し替える意図と言うのが、この「題詞」及び、「無記名作歌」を最初にする配列や歌数の矛盾点にある
私が、そこまでの思いを口にすると、三中の傍に座っている当時の遣新羅使人たち、特に大使や宅満が、面白そうに私の方を見遣ってくる
それもそうだろう、何しろ当事者たちを前に、とんでもない空想を疲労しているのだから...
そして、大伴三中は、私の高鳴りを鎮めるように自身の右手を軽く挙げて、
「誤解しないでください。あの『歌群』を最終的に編纂したのは、私や当時の使人、そして家持の時代ではないのですよ。いや、本来なら家持の意志も強くあるべきかと思うのですが、残念ながら彼はそれどころではなかった。だから、もっとずっと後のことです、あの『歌群』があなたたちの目にする『万葉集』の一部になったのは。」
そうだった、私はそのことを、すっかり失念していた
何もかも、三中の思惑で「巻第十五」が「万葉集編纂」のきっかけだと思い込んでいた
「私が意図した『歌群』には、『宅満の挽歌』は残していました。それは、あの題詞のところに、確かにあったのです。そのための題詞ですからね。しかし、同時に大使継麻呂の挽歌もあったのです。結果的な差し替えのようになったのは、濱成の私への思い遣りでしょう。」
勿論、藤原濱成が「万葉集」の最終編纂者だとは思わない
しかし、後世に「万葉集」という名称で伝わる「歌集」の中核となる構想は、間違いなく濱成が育んだものだと思う
当時は、「万葉集」という「名」は...誰も使わなかった
あの「歌経標式」に、まったくその「名」が残らないのは、少なくとも宝亀三年(772)の、この書の成立時には、誰も使わなかったことは容易に推察できる
大伴三中たちの「天平八年遣新羅使節団」を襲った「悲運」、その想いを籠めてその二十年後に世に出そうとした「覚悟」
しかし、それが「万葉集」という「歌集」への目的ではなく、あくまで「歌群」が「追悼」もしくは「挽歌」としての「いち歌集」だった
それを、その「歌群」に潜む「怒り」をベースにして構成を試みたのが、いち早く「歌論書」を世に出し、後の「万葉集」へのきっかけとなった濱成の「閑職」ゆえの壮大な願いだったのだろう
そこには、三中たちの想いを酌むだけでなく、「和歌」そのものへの世界観があったはずだ
大伴家とは、父藤原麻呂が大伴坂上郎女とも婚姻関係にあったことが、家持との交流も支障はなく、大伴家代々に残る「数々の歌」も、大いに活用されたと思う
「万葉集」に載る歌のほとんどは、そこに埋もれていたものだ
伝承古歌ばかりでなく、当時でも貴族社会で余興のように詠われた歌の数々、そして市井の「謡い」...
藤原濱成は、では何故「雪連宅満の挽歌」を、漏らしたのだろう
しかも、題詞はそのままで...
それまで、静かに耳を傾けていた「葛井連子老」と、「六人部鯖麻呂」が急に背筋を伸ばし、
鯖麻呂が子老に合図するような仕草をすると、子老は口を開いた
「彼への追悼歌、私はこの鯖麻呂とともに、詠いました。彼の父、古麻呂には随分世話になっていましたし、そして祖父の博徳は、私たち官人の憧れの人でしたから。」
「では、あの二組の挽歌は、やはりあなたたちの追悼歌なのでしょうか。」
私の思惑が少々外れて、気落ちした表情を見せたからかもしれない
「いえ、別の歌です。」
すると、濱成は、それらの「宅満の挽歌」を、すっかり外したのは何故だろう
三中は、意味ありげな含み笑いを見せると...「漏らしてなどいませんよ」
そう言って、広間に目を移し、私と同じように、濱成を探しているようだった
「雪連宅満の挽歌」...どこにあるというのか...