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Channel: 残雪、もとめて
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万葉びとたちとの新年会「第十夜・幻、天平八年遣新羅使」

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「もう一度、題詞に振り返ってみませんか。」

そうだった、大伴三中は私に、「題詞」を注目させようとしていたのだった
本文の「題詞」と、「目録」とでは、微妙に違うことは解っても、それがどれほど「想い」を籠められたものか、そこまでは私も考えたことはなかった
現代でも、この題詞の掛かる範囲はどこまでなのか、そう言った諸説のあることは承知しているが、「目録」で「百四十五首」と明記されていることから、当然のようにこの題詞が歌群全体に掛かるものだと思いこんでいた

「そうか、三中さんの『原本』では、勿論歌数も違うし、何より単なる記録ではなく、『使人たちの心の叫び』を籠めたものでしたね。」

私は、三中が「題詞と目録の関係」の解説でも始めるのかな、と
それはそれほど重要なことでもないだろうに、と気を緩めてしまったようだ
だから、「使人たちの心の叫び」と言ったのが、軽い気持ちで伝わったのかもしれない
すぐに自分でもそれを誤解されないように言い直そうとしたのだが...

「『遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌』、この『悲別贈答』を冒頭の十一首に見るのが無理のない形でしょうが、私がこの『題詞』を書いた時は、まだ当該の『十一首』はなかったのです。」

そうだった、確かに三中は言っていた
帰国して、使人たちの「心情の記録」として、あの題詞を書いたのだ、と
ならば、それから二十年ほども後に挿入となる「十一首」が、「悲別贈答歌」に相当するはずがない

三中の説明に、一気に期待が高まってくる
では、あの「悲別贈答」とされる「歌」は、どの歌なのだろう...

「冒頭の十一首が、『目録』では『贈答歌十一首』となっているのは、編集時にそれを挿入したからで、元々は、『秦間満歌一首』、それに続く『蹔還私家陳思歌一首』、『臨發之時歌三首』が、『妹』との応答歌と一緒に構成させていました。それを『悲別贈答歌』としたのです。しかし当初の想いであった、ただ仕舞い込むだけなら良かったのですが、これを世に出そうとしたとき、もっともっとあのときの感情を叫ぼう、として『十一首』を新たに追加させたのです。勿論、家持を除けば、どの歌も使人たちの歌です。実際の別れの辛さは、当時では詠うことも敵わないほどの哀しみですから、後になってその時の心情がいっそう強く表現されたものになりました。だからですよ、あたかもその航海の結末を知っていたかのような情景になったのは。」

確かに、「贈答歌」の後の「五首」、これに「妹」の応答歌があったとしても、「悲別」と呼べるほどの悲愴感は窺えない
本来の「別れの歌」だったのかもしれない
しかし、航海を終え、帰京した大伴三中にとってみれば、使人たちの出航前の「別れの哀しみ」を、航海後の視点で見詰めることはできないはずだ
だから、題詞には一部始終を見据えた言葉が並ぶにしても、少なくとも出航前の「悲別」の実態は、後の挿入「十一首」よりも、この「五首」の方が現実的に思える

大伴三中は、「妹」たちの「応答歌」を、敢えて漏らすことで、冒頭の「悲別贈答歌」を強調させたのだろう

私がこの題詞に注目して、何となく気になっていたことがある
それは「慟情陳思」という表現だ
これまで、何も気にすることもなかった「慟」という漢字表現
これが、やけに気になり始めた

この漢文の訓を、「情(こころ)を慟(いた)ましめて思ひを陳べ」としたり、「情(こころ)を慟(いた)めて思ひを陳べき」のように、「使役」の助動詞を用いたり、そうでなかったり、いろいろとあるが、私が気になって已まないのが、そうした文法上の検証ではなく、「慟」という漢字の持つ本来の意味のことだ
漢和辞典を引くと、「悲哀の情が極って大声をあげてなく。極度に悲しいさま。悲しみが極るさま」とある

それに、この漢字の用例では、「日本書紀」で十三例すべてが「死の場面」に使われ、「万葉集」でも、人麻呂の妻の死に対しての「泣血哀慟」、同じく人麻呂の屍を見ての歌で「悲慟」、さらには大伴旅人が死んだときに、県犬養宿禰人上の歌でも「悲慟」と用いられている
それほど、「慟」という漢字の持つ意味は、人の心のもっとも深い悲しみを表現していることになる
他でのこの漢字の表現は、万葉の時代では、ほとんど見られない

この「慟」に、それほどの「意味」があり、それを「こころ」として用いて詠うからこそ、三中は題詞に「慟情陳思」という表現を使ったのだろうか
私は、そのことを訊いてみずにはいられなかった

「今気付いたことですが、『慟』という文字を使われていますね。この文字の現代での私たちの理解では、死に直面するほどの深い悲しみがあります。まさに、三中さんが望んでおられた、この歌群の本質なのではないでしょうか。」

三中は、微笑ながら、静かに頷いた
そして、まるでこれが癖のように、意が伝わったことへの安堵の仕草を見せながら、庭に目を移す
何度も見たその仕草を、私もまた同じように庭に目を遣り、改めてこの「外交団」の悲劇を想像していた

この題詞に籠められた意味を、私なりに反芻してみる
確かに、「別れを悲しびて贈答し」、「海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」、「并(あは)せて所に当りて誦(うた)ふ古歌」、それぞれが「歌群」それぞれの場面に対応するように解釈されはするが、もっとも「心の叫び」として残したかった「場面」と言えば、「海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」ではないだろうか
そこには、航海途上ということで、壱岐島から対馬までの「悲しみの最高点」がある
「情を慟ましめて思ひを陳べ」ることの、その原因となるものへの「憤り」が、この題詞には籠められているように思えてならない

 


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