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万葉びとたちとの新年会「第九夜・幻、天平八年遣新羅使」

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「万葉集」に関して、誰もが知っていることだが、平安時代の菅原道真の著と言われる「新撰万葉集」(上巻893年、下巻913年には奥付にそうあるが、道真はその十年前に亡くなっている)がある

その「序」に、いきなり「万葉集」という文字が目に入る

「夫萬葉集古歌之流也。非未當稱警策之名焉。況復不屑鄭衛之音乎。聞説古者飛文染翰之士。興詠吟嘯之客。青春之時。玄冬之節。随見而興既作。觸聆而感自生。凢厥所草稿不知幾千。漸尋筆墨之跡。文句錯乱。非詩非賦。字對雑揉。難入難悟。-以下略-」

「新撰万葉集」を絡めた「万葉集」のことは、後で現れる菅原道真に訊いてみたいと思うのだが、今は、この「序」の冒頭だけで、大伴三中との対話に入っていける

「万葉集」の詠われた時代を、奈良時代を中心とするので、「新撰万葉集」は、およそ二百年の後の「歌集」ということになる
それに、「和歌」として「万葉集」以降の「歌集」が、勅撰の「古今和歌集」とされるが、私撰をも含めれば、この「新撰万葉集」は、905年撰の「古今和歌集」とほぼ同時代の「歌集」となる
それは、少なくとも勅撰、私撰という立場の違いはあっても、そこに二百年近く前の時代の「万葉観」というものが、同様に語られていることは興味を引くことだ

先の「新撰万葉集」の「序」の冒頭の後半に書かれているように、それを概約すれば、
「文句錯乱、詩に非ず、賦にも非ず、字対は入り難く、悟り難し」
確かに、「万葉集」は古歌には違いなく、その表記も漢字ばかりなのに、「漢詩」でもなく、かといって「やまとことば」を表記したとも思えない、そんな手に負えない存在と認識している
さらに「古今和歌集・仮名序」でも、「万葉集」は難解で理解困難だが...、と言う

こうした時代を経て、その半世紀後に、いわゆる「梨壺の五人」による「訓点作業」が勅命により行われた
それが、今日に伝わる「万葉集」訓読の出発点のようなものなのだが、そうなると現代の私たちが通常読んでいる「万葉歌」というもの、実際の「万葉びと」たちが、そう詠んでいたのかどうか、随分と心細くなる

「万葉歌」の一字一句に拘れば、そのオリジナルが存在しない以上、誰にも本当の歌の姿を知ることはできない
「古今和歌集」以降の歌集が、平仮名であり、その訓については写本の誤写を様々な校合で検証するだけですむが、こと「万葉集」に関しては、いくら誤写の可能性を校合によって見つけても、その「音」にまで確実性を求めるのは、まさに漢字表記ゆえの難しさが伴う
だから、当時の漢字の使われ方を研究しながら、この漢字では「やまとことば」にならないので、この漢字は誤写ではないか、あるいは漢字のつくりが似ているので、とかの展開になってしまう
これについては、膨大なデータを用いれば、少しは前進するだろうが、「梨壺の五人」の時代、そして、それ以前の菅原道真や紀貫之の時代では、そこに生涯を掛けるほどの労力が求められたことだろう

万葉の時代から、「和歌」の隆盛が継続して、途切れることなく詠い継がれたのなら、いくら「漢字」だらけの「万葉歌」であっても、より原形に近い形で後世にも理解されたのだろうが、何しろ「古今和歌集」までの二百年近い間、その表記が漢字であれば、その「歌を書き残す」という作業は、次第に巷の口承歌などの類で発展していったのかもしれない

後世の「歌集」によく見かける、「万葉集」では「作者未詳の歌」が、「人麻呂作」であったり。「赤人作」となったりする原因も、奈良時代の著名な歌詠みたちの名を、ごく自然に用いて伝承していったのだろう

こうした表記上の理解の困難さを考えると、「万葉集」の理解の及ぶ、具体的に言えば、平安時代初期には一旦その「歌集」のようなものはあった
しかし、後に「歌集」は「こうしたもの」という概念とは違う存在だったと思えてくる

では、万葉の時代の当事者たちは、何を残そうとして、それが「万葉集」という「歌集」になっていったのだろう

私は、あらためて大伴三中に向き合った
これまで、三中は「歌集」を意図していたのではなく、当時巷間で盛んに嗜まれている「歌」という手段で、「記録」を残そうとした、と言っている
この時代、すべての「公文書」が「漢文」であり、正式な記録は、役所の形式ばった文章しか残せない
それに異を唱えるつもりはなくても、どうしても残したい「心の記録」があった
それが「和歌」という「心」で陳べるものなら、それが当時の政権に目を付けられても、余興だといって言い逃れることができる、そんなものだったかもしれない

しかし、敢えて公表する必要もなく、従来のように「大伴家」の書庫にでもしまっておこう...
私は、そんな三中の気持ちだと理解している...
そもそも「万葉集」という「名」は、いつ誰が用いた「名称」なのだろう
文献上は、先にあげた「新撰万葉集・序」や「古今和歌集・仮名序」当たりだろうが、それ以前に「万葉集という名の歌集」の存在があったことを前提にしている
これも、後で道真たちに訊いてみよう


「『万葉集』の題詞を覚えていますか? 【遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌】とあるでしょう。これは、私が最初に書き添えた『題詞』です。使人たちの心情を記録しておこう、と当初にそう書いて残していました。しかし、後に歌集として編纂されたとき、その巻に『目録』が加えられましたが、そこにはこうあります。」

【天平八年丙手夏六月、遣使新羅国之時、使人等各悲別贈答、及海路之上慟旅陳思作歌、并当所誦詠古歌 一百四十五首】

確かに、三中が添えた「題詞」にはないが、「万葉集巻第十五目録」では、その「年月日」と「歌数」が記されている
内容的には、大きな違いはないが、微妙にその表現が違う

「私が記録した航海時の歌は、その目的に叶うものでした。その目的というのが、二度と逢えないかも知れない、という気持ちを抱いて出航した使人たちの歌を記録するためです。」

だから、仰々しく「航海歌日誌」などと評価されるのは、不本意だと言う

「あの『遣新羅使節団』が特別な意味を持つのは、本来の『外交団』とは違う『死地』への任務だったからです。あらかじめ、そんな本当の姿を承知して乗り込む使人は、本当に少人数でした。冒頭の十一首がありますね。しかもどの歌も作者の名がありません。仮に、出航前に誰かが歌ったものであれば、その者たちの名を漏らすはずがありません。『万葉集』中に、たった一首しか歌を残さない者でも、またその者が、どんなに無名であっても、解っていれば、その名を記していますでしょう。勿論意図して名を詳らかにしない場合もあるでしょうが、この『外交団』で、それが必要だとは思いません。と言うことは、実際に『使人』以外の者たちの歌を、ここに『悲別贈答歌』として、二十年後の事件以降、あたかも使人たちの想いを全体の基調として効果を出させるために、加えたのです。ええ、勿論その歌は、私を含めたこの『外交団』の縁者が中心でした。家持もその趣旨に喜んで賛同し、詠ってくれました。」

大伴三中は、また私を驚かせてくれる
大伴家持が、名を伏せて代作したなどとは、まったく思いもしなかった
出航前から、「秋」には帰ってくるから、それまでは我慢して待っていてくれ、とは
実際は「秋」になっても帰れないかもしれない可能性を、承知してこそのモチーフだと思う
この冒頭に、そうした出航前の「約束」を強調するのは、その演出の効果を高めるために、あらかじめ全体の構成を描いていなければならない

そうしたアドバイス的な協力が、具体的にどの歌に示されているのだろう

「三中さん、それは冒頭の十一首が、家持の提案だと言うことですか? あの十一首のどの歌を、家持は詠ったのでしょう。」

三中は、やや思案するように顔を少し上に向け、目を閉じた
その仕草が、何を意味するのか私には解らなかったが、ひょっとすると、十一首の歌を挿入したときの場景を想い描いていたのかも知れない...そこに、家持がいて...

「冒頭の五番目と六番目の歌、今の時代では歌に番号が付けられているので、とても探し易いですね。その歌、『新編国歌大観歌番号』では、『3604、3605、3609』の女歌と男歌の贈答歌になっています。これを、家持は詠ってくれました。」

私は、その歌を思い出してみた

3604
大船乎 安流美尓伊太之 伊麻須君 都追牟許等奈久 波也可敝里麻勢
 大船を荒海に出だしいます君障むことなく早帰りませ
 おほぶねを あるみにいだし いますきみ つつむことなく はやかへりませ

3605
真幸而 伊毛我伊波伴伐 於伎都奈美 知敝尓多都等母 佐波里安良米也母
 ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも
 まさきくて いもがいははば おきつなみ ちへにたつとも さはりあらめやも

3609
多久夫須麻 新羅邊伊麻須 伎美我目乎 家布可安須可登 伊波比弖麻多牟
 栲衾新羅へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ
 たくぶすま しらきへいます きみがめを けふかあすかと いはひてまたむ

この三首...私は、他の八首と読み比べてみた
確かに他の歌は、涙ながらにむしろ官命さえも、それが何です、と言わんばかりの女の嘆き、
また答える男は、秋には逢えるのだから、そんな二度と逢えないような嘆きを見せないでくれ、と...

そんな歌の中で、三中の言う「家持作」の歌は、どんな困難があろうと、体を労わって傷病などに遭わないで無事に帰って来てください、といい、男はお前が「斎」さえきちんとしてくれれば、どんなに海が荒れようと事故などもなく、お前のもとに無事帰ってくるから、と詠う
最後には、新羅へいらっしゃるあなたが、帰国して逢えるまで、毎日「斎」をして待っています、と

他の歌が、感情を隠すことなく「心のさま」を弾けさせたのに比べ、「家持作」と三中が言う三首は、その感情を胸に仕舞い込み、それでいて想いを伝えようとしている

歌の評価は、私にはできないが、家持作とすれば、そこに家持詠歌の面影があるはずだ

巻第二十・4538に家持の次の歌がある

二月十日於内相宅餞渤海大使小野田守朝臣等宴歌一首
4538
阿乎宇奈波良 加是奈美奈妣伎 由久左久佐 都々牟許等奈久 布祢波々夜家無
 青海原風波靡き行くさ来さつつむことなく船は速けむ
 あをうなはら かぜなみなびき ゆくさくさ つつむことなく ふねははやけむ

この歌は、天平宝字二年(758)、遣渤海大使に餞として贈った歌だが、時期的にも、三中が覚悟して「天平八年(736)遣新羅使歌群」の「心の記録」を、756年以降に世に出そうとした頃と重なる
そして、この時の語句「つつむことなく ふねははやけむ」、家持はその他にも、
「天平勝寳七歳(755)乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌追痛防人悲別之心作歌一首[并短歌]」の、
「巻第二十・4355」で、「・・・つつまはず かえりきませと いはひへを とこにすゑて しろたへの・・・」と、
「天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌陳防人悲別之情歌一首[并短歌]」の、
「巻第二十・4432」で、「・・・つつみなく つまはまたせと・・・」のように、防人たちの故郷での別れを慮って詠ったものが、「つつみ」という「語」を使う場合、故郷を離れて遠方へ向かう者への歌に多い
それが、「家持詠歌」の晩年に集中していることや、防人の心情を酌み取ってのことを考えると、
759年以降詠わなくなった家持の歌として、名を出さなくても、その構成に一役買ったのかもしれない

「古歌、人麻呂の歌や、その歌集と言われているものも、家持の進言で挿入させてもらったのですよ。勿論、それはあくまで『天平八年遣新羅使節団』の「心情」に擬えてのことです。決して実録ではありません。何度も言いますが、私たちは『歌集』を作ろうとしたのではないのです。ただただ、あの『外交団』のことを、世に出したかった。それが、少しでも朝廷に届けば、と...。」

そんな思惑があるとすれば、当然ようやく中央官僚に活躍の舞台を見出せた家持にとっては、堂々と自分の名を出せないのかも知れない
そこで、同年代の藤原濱成が、加わるのか...

私は、濱成を探して見た
私を出迎えてくれた濱成、どこに消えたのか...


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