万葉びとたちが集うこの広間には、庭との仕切りに、引き戸がない
そんな造りの家屋など見たこともなかったが、何故か違和感を持つことはなかった
雪解けの春を思わせたり、あるいは気付けば真冬のように深々と降る雪を見ることも...
視覚的な季節感は窺えても、体感としての寒さや暑さは、ここでは感じられない
考えてみれば、ここに集まる人たちにとっては、すでに季節感に心を動かせる必要もないことなのだろう
三中の隣には、雪連宅満がいる
そして、いつの間にか大使・阿倍朝臣継麻呂がその隣にやって来ていた
さらには、大判官・壬生使主宇太麻呂、少判官・大蔵忌寸麻呂もいる
まさに「天平八年遣新羅使節団」の幹部官人たちだ
「先ほど申しましたが、あの『歌群』の仕上げに、この者たちは欠かせないのです。勿論大使や宅満はすでにいませんが、それでも大変な役割を担ってくれました。ここで重要なのは、後の『万葉集』で新羅に向かう最終局面を迎えた三つの場面です。それは【到壱岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首并短歌】、【到対馬嶋浅茅浦舶泊之時不得順風経停五箇日 於是瞻望物 華各陳慟心作歌三首】、【竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首】、これらが後の人たちには、どう伝わっているのか、どう伝わって欲しかったか、懸命に考えて用意したものですから...」
【到壱岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首并短歌】は、その題詞の曖昧さもあるが、長短歌併せて九首
【到対馬嶋浅茅浦舶泊之時不得順風経停五箇日於是瞻望物 華各陳慟心作歌三首】三首
【竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首】十八首
これらの歌は、まさに新羅国を目前として、本来ならこの「外交団」の有能な官人振りを発揮する場面なのだが、不幸にも当地に蔓延していた「鬼病」による犠牲があり、官人たちの同様がまったく隠すことなく詠われている
むしろ、新羅への言及どころか、望郷の念に満ちている
「そして、帰路の『家島五首』と言われている【廻来筑紫海路入京到播磨国家嶋之時作歌五首】。これでは、往路の最終寄港地である『竹敷浦』から、帰路の『播磨国家嶋』の間、はっきり言えば、目的地の『新羅国』に行き着けたのかどうか、一番必要な要素がありませんよね。勿論、この間の歌は、私は用意していました。しかし、残さないことに決めたのです。」
それは、私にとって二つの意味で驚きだった
一つは、不自然な「詠歌の欠如」の当人たちの認識、もう一つは意図してそれを残さなかった、ということだ
「もし、『新羅国』で外交団として迎えられ、双方の記録に残ることにでもなれば、こうした作為は意図しなかったでしょう。しかし、実際の私たちは、彼の国に接岸さえもさせてもらえませんでした。どうしてか、もうお解かりだと思います。」
私の想像では、その大きな要因は、新羅側の国内事情だと思っていた
三十六年間に及ぶ新羅国「聖徳王」の治世
その「聖徳王」が薨ったのが、737年春二月のこと
「三国史記」では、その直前まで、王が病に伏すような記述もなく、唐突のようだが、当然日本からの「遣新羅使」を受け入れ、謁見する余裕もなかったのだろう
勿論、仮に病であっても、一国の「外交交渉」となれば、事情を伝え、王に準ずるものが代役を務めるものだとは思う
しかし、そんな記述、記録は一切ない
そこにあるのは、あくまで唐国との外交記事ばかりだ
「遣新羅使節団」が、実際に新羅国に到着したのがいつ頃なのか、それは詳細は伝わらないが、「続日本紀」の記事では、第一陣の帰朝報告が二月十五日とされているから、使人たちが新羅国に着いた頃は、まだ聖徳王は健在だったはずだ
聖徳王の第二王子・孝成王が跡を継いで即位するが、いつ頃からその実権を持っていたのか、それは解らない
いずれにしても、新羅国内での「外交団」受け入れが出来る余裕はなかったと思う
しかし、三中は言う
「九州での『鬼病』の現状をこの目で見たとき、私たち『使人』誰もが、この任務の本当の意味を覚ったのです。それまでは、使命感に燃える若い使人たちも多かった。確かにあの『歌群』では、それは微塵も感じられないでしょう。私たちが、その使命感を歌に詠む、ということは稀なことです。むしろ、絶望感やあるいは言葉も出ないほどの感銘を受けたとき、振り返って言葉にするのが普通のことです。ましてや『官命』ですから、いちいち口に出さずとも、誰もが抱く使命感はあったのです。何事もなく無事に任務を果たすことになったのならば、あの『歌群』はなかったはずです。それが一変したのは、壱岐島での宅満の死からです。そこから、私たちの航海は変質しました。ここにいる大使やそれこそ名を明かして歌を残す者たちは、当初からこの航海の意味を感じてはいましたが、少なくとも宅満の死までは、その気配を覚られないように心掛けていたのです。そして、新羅国での扱い...接岸も出来ず、当地の役人の臨検を受けました。」
古代の外交に疎い私が、臨検というものが、通常の手続きなのかどうかわからない
しかし当時としても、九州北部に多くの罹病により死者があることは伝わっていたことだろう
そして、その「罹災地」からやって来る「使節団」
入国に際して、「臨検」という手段は、当然のことだと思う
「私たちの船に乗り込んだ新羅の役人たち、どんな反応だったと思いますか。聞けば新羅でも『疫病』が流行していると言います。そんな中で、王室にも害を及ぼす可能性のある外交団など、とても上陸などさせられないでしょう。現に、聖徳王はその直後に亡くなるのですから、新羅が過敏になるのは理解出来ます。結局私たちは、接岸も許されず、追い返されました。」
この派遣船に、総勢で何名の使人が乗船していたのか、私には解らない
だいたい六十~八十名ほどの規模だと言われているが、そうなると半分くらいの使人が帰京できなかったことになる
それが「鬼病」と言われる「疫病」のせいかどうかは解らないが、少なくとも大使などの高級官人が罹ったとすれば、下級使人たちの船上での環境は、かなり苛酷だったはずだ
そんな派遣船に臨検した役人たちにとって、そこで目にする光景は、決して自国に近づけたくないもののはずだ
生死を彷徨う罹災者たちも多くいたことだろう
「続日本紀」の記事で、帰国した副使大伴三中は、病が治まらず、第一陣の入京からひと月あまり送れての入京が記されている
そこから推察できることは、新羅の海で対峙したときのことが、容易に目に浮ぶ
「私は、帰朝報告で、事実を報告しませんでした。上陸できなかったことを逆に利用したのです。その一つが、大使は使命こそ果たせなかったが、派遣船を困難にも挫けず新羅まで導いた、と。そして、帰路の対馬で病に倒れたのだ、と。」
それは自分たちを、新羅への抗議と仕向け、その航海上のリスクを「勅命」として、強引に受けさせた朝廷への、三中いや使人たちの覚悟の抵抗だったはずだ
「考えて御覧なさい。大使が帰路対馬で亡くなったのであれば、礼儀として私が追悼の『挽歌』を詠わないわけがないでしょう。解っていただきたいのは、帰路の使人たちの心情は朝廷への怒りで一杯でした。私もその想いを幾首も詠いました。しかし、それは残さなかった。何故だと思います。それは帰朝報告との辻褄を合わせるためです。しかし、何でも『公文書』で残すべき『律令国家体制』でありながら、私の『帰朝報告書』はないがしろにされ、ただ口頭で述べた不首尾に終ったことだけが大きく採り上げられました。だから、一旦は胸の内に仕舞い込むつもりだったあの『歌群』を、二十年後に世に出そうと思ったとき、『歌群全体』の底に悲愴感を演出させたのです。もっとも、後に『万葉集第十五」』として編纂される時、その編者は同じ『巻第十五』に、『中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子』の悲話贈答歌六十三首を纏めていますが、あれには参りました。なるほど、と思ったのです。この演出は、後の編纂者たちにとって、大きな意義があったのですね。」
私が、少しばかり気になり出した「悲話贈答歌六十三首」に三中が言及したとき、今はそれどころではない、と心の中で首を振ってはみたものの...
やはり「巻第十五」という一つの「巻」は、「万葉集全体」の「産声」だったのだろう
三中が言う、後半の「四景」をベースに考えると、それ以前の歌々の演出効果を、もう一度再確認することになる
この「天平八年遣新羅使歌群百四十五首」は、ブログでも随分書き続けたが、今度は大伴三中と会話しながらの作業だ
大使他、副使三中、大判官、少判官...訊きたいことは一杯ある
特に、【竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首】は、往路最終寄港地であり、その詠歌の配列が、あまりにも整然としている
大使、副使、大判官、少判官...この配列に私はずっと気になることがあったからだ
それのみならず、長門の浦から船出する夜に、月の光を仰ぎ観て作る歌三首に続いて、唐突に「古挽歌(旧3625)」が挟まれている
配列的には、順調な航海をイメージさせている最中に、「古挽歌」とは...
これも大きな疑問だった
これが演出の一つであれば、いやこれでこの「歌群の演出」を確信したのだが、このことも訊かなければならない
何だか、これからの展開を暗示するかのように、外は吹雪き
梅の小枝も、束の間の春日を惜しむように恨めしそうに風に震えている