Quantcast
Channel: 残雪、もとめて
Viewing all articles
Browse latest Browse all 71

万葉びとたちとの新年会「第十二夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

$
0
0

いつの間にか、三中の周りに集まってきた人々...
大使をはじめ、その名を正史でも残す者もいれば、「万葉集」にのみ、しかもこの「遣新羅使歌群」でしか知られない人々...
話題になるたびに、その存在を姿となって見せたり、私が気付くことなくいなくなったりはするが...

大使・阿倍朝臣継麻呂
大判官・壬生使主宇太麻呂
小判官・大蔵忌寸麻呂
大石蓑麻呂
秦間満
田邊秋庭
羽栗
雪宅麻呂
阿倍継麻呂次男
土師稲足
秦田麻呂
葛井子老
六人部鯖麻呂

まるで、「天平八年遣新羅使人」をここに集めた意義を、私に教えんとするかのようだ
確かに、当時の多くの「遣使」それぞれの氏名が、明らかになっている訳ではない
「遣唐使」のように、多くの文献を持ち帰り、その華を咲かせた人たちは、確かにその名を残す
しかし、「天平八年の遣新羅使人」たちの事績については、文献上では、何もない
それにも関わらず、「万葉集」によって、その「名」を残せる僅かばかりの人々...

仮に、「遣新羅使歌群」が存在しなければ、その名を知れることもない人々も...
上記の「官職」の付く人物は、その存在を他の文献でも知り得るが、それ以外では、その手掛かりも乏しい
「天平八年」のこの使節団で、どの程度の官人や操船などの雑役に関わる人がいたのか、私には解らないが、
だいたい八十人ほどの規模だったと言われている
少なくとも、上記の「詠い手」とされる人たちは、ほとんどは実際に乗船していた「官人」だったとは思う

「遣新羅使歌群」を構成するのに、実際の「遣使」たちの「詠歌」は欠かせない
しかし、その「詠い手」人数の少なさに、私は当初から不思議な感想を抱いていた
多くある注釈書でも、名もなき雑夫の歌、などと片付ける類の注釈があるが、そもそも当時の「和歌」は、そ んなに名もなき人たちが嗜むほどの流行があったとは思えない
勿論、「謡い」のような定型を無視した形での「唄」は存在していただろう
しかし、「和歌集」として残そうとする目論見が前提であれば、それほど多くの「詠い手」がいたとは思えない
むしろ、上記の人たちがそれを意識しての「作歌」であったとすれば、その名を記さない「歌」こそ、「航海上」の「作歌」ではなく、帰国し尚且つ何らかの意図を持っての「編纂」だったと思う

そこには、結果的に「悲劇の使節団」として、文献上に残されることになる「天平八年遣新羅使節団」であることを知るからこそ、この「歌群百四十五首」の構成が「悲劇性の効果」を発揮させていることになる
そう考えると、「歌群百四十五首」の内、どれほどの「歌」が「航海上」の歌であったのか、あるいはそれが不自然ではないのか、という視点からの推測も可能だ

冒頭の「悲別贈答歌十一首」の、悲劇的な「航海」を予感させる歌など、「遣新羅使節団」の使命を考えれば、出航前の「歌」にはそぐわない
この「十一首」に続いて、「歌群」初めての記名歌(作者・秦間満)が載る

3612
 由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里
  夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り
  ゆふされば ひぐらしきなく いこまやま こえてぞあがくる いもがめをほり

しかし、左注「右一首秦間満(はたのはしまろ)」のこの人物が、どんな人物なのか、何の手掛かりも文献上には見当たらない
歌の内容に関わらずとも、「歌群最初の記名歌」であることを考えると、三中が秦間満を重んじていたことは想像できるのだが、それを述べる注釈書は一切存在しない
勿論、「秦間満」という人物の伝がない以上、誰にも想像のしようがない、ということは解る
少なくとも、研究者の立場では、根拠の明示できないことへの言及は出来ないのだろう
その意味では、私のような無責任な立場で、あれやこれやと想像をしてみるのは、随分と痛快で面白いことだ

「秦氏」に関しては、古代史上最大の「氏族」であることは、多くの研究者や資料でも窺えるが、
それゆえに、「秦間満」という人物を思い描くことの目に見えない制約もまた多い
「秦」の訓み方だけでも、「はた」と「はだ」と訓む根拠はそれぞれに文献上から多く引用されている
一般的には「はた」が通るようだが、「姓氏録『太秦公宿禰条』」や「古語拾遺」では、秦氏の献上する「糸、綿、絹」などが「肌膚・肌」に心地良いことから「ハダ」とその姓を賜った、などともある

またこの「新年会」でも、私の案内役であり、後ほどまた会いたいと思っている藤原濱成の「歌経標式」に引用された「鏡女王」の歌で、

  わが柳 緑の糸に なるまでに 見なく概(うれた)み 懸けて倶美陁利(組みたり)

これは、「肌膚」に由来する「秦を波陁と謂う」などの伝承や、鏡女王歌のように、同じ漢字表記でありながら「くみたり」と訓む「た」の「清音」で用いたりすることから、その「訓じ方」だけでも多くの説がある
そして何より、古代史上最大と言われるこの「氏族」が、多くの研究をされているにも関わらず、謎の氏族であることも確かなことだ

でも、私の関心は、そうした「氏族」自体の探求ではない
勿論、そんな大それたことなど、私の能力では出来るはずもない
私の「秦氏」に対する関心は、ただ一つ、それは「遣新羅使歌群最初の記名歌」に載せられる「秦氏」にある
この「歌群」には、もう一人「秦田麻呂(はたのたまろ)」が登場するが、まずは「間満」に拘ってみる

いきあたりばったりで、大伴三中にいろいろと訪ねたりしたが、「葛井子老」や「六鯖」が、別に「雪連宅満」の追悼の挽歌を詠ったことなど今はさておき、「歌群百四十五首」の整理目的で、そこから「歌群の原形」や、意図を知ることから、三中たちと話していかなければならない、と感じた
すでに、その関係者がこうして目の前に集まっているのは、私への配慮からだと思う

当初から感じていることだが、写真などあるはずもない時代の人たちの「容姿」など、私に解るはずもないのに、ここに集まっている人たちの姿は、何の躊躇いもなく見分けることができる
初対面なのに、初対面の戸惑いは、まったくない

これまでの大伴三中の語らいからすると、世に言う「万葉集」という「歌集」は、核であった「遣新羅使歌群や悲話応答歌」を、その意図を「歌集」体裁にすることで、後世に残せる思惑があった
そしてその協力者として、多くの歌を蔵している「大伴家」からの歌の提供、閑職に追い遣られた藤原濱成の学者としての決意、それらが更に後の平安京の、次第に興隆を見せ始める「和歌」の時代に最終的に編纂が為された

それも、そのきっかけと言えば、「遣新羅使歌群」の原形があって、更に「悲話応答歌」を併せることで大伴三中たちの目論見は成就したが、「歌集・万葉集」としては、まだまだ後人の強烈なエネルギーが必要だったのだろう

大伴三中は、「悲話応答歌」が、最終的に「巻第十五」に「遣新羅使歌群」と併せられたことに思わず唸った、と言っていた
それが、どんなに意味のあることだったのか、これから確かめられるはずだ
そのことを、「悲別贈答歌十一首」の最後の歌、

3610
 波呂波呂尓 於毛保由流可母 之可礼杼毛 異情乎 安我毛波奈久尓
  はろはろに思ほゆるかもしかれども異しき心を我が思はなくに
  はろはろに おもほゆるかも しかれども けしきこころを あがもはなくに

この歌からも感じ取ることができる
それは、次歌である「秦間満」に続くものであり、また「悲話応答歌」の「中臣宅守歌」にも関わってくるように思えるからだ

目の前の秦間満は、先走る私の想いを見す越すかのようにしきりに頷いている
三中よりかなり若く見え、非常に聡明な印象を与えるが、これが「秦氏」全体の素性を象徴しているように思えてしまう
その人物像のまったく伝わらない間満なのに、正史などの公文書にはその名を見せない間満なのに、
私には、あたかも「秦間満」が、「秦氏」そのものに感じられる
もっとも、他の「秦氏」に「逢った」こともないので、当然のことだが...

大伴三中が口を開く

「『贈答歌十一首』については、これからも頻繁に話題になりますから、その次の秦間満の詠歌、この歌の背景を考えてみてください。名を載せる、最初の歌、それが間満であるのは、それなりに意味があります。」

そこまでは、私も気付く
でも、その「意味」や「背景」となると、見当もつかない

文献上彼の名は、この一首の作者として私たちに伝わるもので、言い換えれば、彼の「言葉」は、この歌のたった「三十二文字」しかない

今度は、当の間満が口を開いた

「後世に編纂された『万葉集』では、確かに『右一首秦間満』と左注にあります。でも、その後の『右一首蹔還私家陳思』と、次の『右三首臨發之時作歌』もまた、私が詠った歌です。実は、他にも数首詠っていますが、実際の航海前に詠ったのは、確かに左注の通り一首のみです。続く四首を副使に乞われて後に帰国してから加えました。副使の想いが理解出来たので、私も共感してのことです。」

出航前の歌と言えば、冒頭の「悲別贈答歌十一首」と、それに続く「右一首秦間満」、「右一首蹔還私家陳思」、そして「右三首臨發之時作歌」の「十六首」のことだが、実質的にはこの内のたった「一首」だけが本来の「出航前の詠歌」だという

そこに「悲別」を代表させるほどの深い「心情」は、確かに窺えない
これが、正式な「航海歌日誌」ではないにしても、「和歌の採録」それ自体が正式な業務ではないはずなので、単なる一官人の遊び心だったかもしれない
しかし、それが航海が進むにつれて、その「悲別」の度合が増してくる
そして、この一首を本に「出航前の十六首」が、後に挿入される...そんな編纂者の、あるいは三中の気持ちが見えてくる

秦間満の当初の一首から、帰国後に加えた詠歌までの、表向きの「心情」は大きな変化はない
しかし、そこに出航前と帰国後の実際の展開を基にすると、言葉にするのも大変な変化があった
それを予感させんがための「挿入四首」ということになる
どこに、その予感の言葉が籠められているのか...
私は暫く、手元の「万葉集」を眺めていた
じっと一字一句を呑み込むようになぞって...

「いづれの島に 廬(いほ)りせむ我」...これなのか...

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 71

Trending Articles