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Channel: 残雪、もとめて
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「カデンツァ」、沁みて

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この数日、調べ物などの読書のBGMとして、ピアノの独奏曲や、協奏曲を聴くことが多かった

クラシック音楽に親しんで、もう半世紀近くなるが、

それまで漠然と聴いていた「協奏曲のカデンツァ」に、ふいに思わぬ連想をしてしまった


ふいに、という表現が、あまりにも唐突感を思わせるが、

私にとっては、紛れもなく、「ふいに」というほどの波動のようなものだった

 

先ほど書いたように、クラシック音楽に親しんだのは、中三のころ...

そして、「万葉集」に、今ほどではないにしても、興味を覚えたのが、二十歳のころ...

いくらかの時間差はあるものの、今となれば、ほとんど同時期とも言える


それなのに、今までまったく思いもつかなかったこと

 

「カデンツァ」と、「反歌」

この二つの人の感性の賜物が、一方では「音楽」で、一方では「言葉」で呼応している

勿論、あくまで私の思い付きであり、これを学問的に比較しようなどとは思っていない


このところ、しばらく「万葉集巻第十五」の「遣新羅使歌群」について書いているが、

その中で、「長歌」及び「反歌」で構成される「挽歌」に取組んでいる

その「反歌」が、少し異質だと感じたのが、まさかこんな風に「カデンツァ」に行き着くとは...


「カデンツァ」と言うのは、私の拙い記憶では、

「協奏曲」の、ピアノとかヴァイオリンとかの独奏者が、

第一楽章、第三楽章の終結部に至る直前に、オーケストラが一切の演奏を中断して、

ソリストの技量や、感性を表現する「即興演奏」だと思っていた

勿論、作曲家自身で、その「即興部分」を記譜することもあるが、

当初は、演奏家たちの裁量に任されていたらしい

ただし、当然のことだが、作曲家の意図するレベルに達しない傾向を憂いて、

次第に、作曲家自身がカデンツァまでも記譜することが主流になるようだが

少なくとも、モーツァルトのピアノ協奏曲第二十番の第一楽章のカデンツァを聴いていると、

演奏家自身だけでなく、ベートーヴェンやブラームスまで、この曲に心酔していることが感じられる

それほど、この第二十番の協奏曲のカデンツァは有名なのだが、

幾つかの、その演奏を聴いていると...


そのとき、「万葉集の反歌」が、突然頭の中で、騒ぎ始めた

「カデンツァ」が、その曲全体の醸し出す叙情を凝縮するかのように演奏されるように、

「万葉集の反歌」もまた、一般的には「長歌の要約や言い足りなかった想いを補う」役目だと解釈していた

こうした漠然とした捉え方でみると、ほとんど同じ意味を持つ用法ではないのか、と


ただし、「カデンツァ」自体には、必ずしも特定の人だけと言う制約はない

その点では、「反歌」は、音楽で言えば「作曲家自身の記譜」に相当するのだが、

ここで、ある試みをしてみたくなった


「反歌」...果たして、本当にすべてがそうなのだろうか、と

今、取り掛かっている、作者不詳の「挽歌」など、

確かに「長歌一首、反歌二首」の構成になってはいる

しかし、その「反歌」に、「巻第十五」の編者、もしくは「万葉集」の編者の意図も、

ある意味での「創作」として考えられないだろうか、と思い始めている

 

ある「カデンツァ」は、第二十番の持つ激しさと美しさを浮かび上がらせ、

また、ある「カデンツァ」では、それこそ演奏家が、その技巧を発揮させる舞台として、

美しさを圧倒する激しさを奏でる

こうした「裁量」というのは、結局一つの作品全体のイメージまで変えてしまいかねない


「反歌」に求める、単なる補足的な感受で済まさなくて、

「長歌」に具わる「深さ」を、あるいは「問答」めいた形で連ならせる...


今にして思えば、「カデンツァ」と「反歌」を、こんな風に捉えることになったのは、

「ピアノ協奏曲第二十番」の「カデンツァ」が、やけに気に入っていることと、

偶然にも、「遣新羅使歌群」の「挽歌」における「反歌」に対する「異質さ」が、

私に、もっと空想しろ、と教えてくれたかもしれない


そう、学生の試験じゃない

好きなものには、答えなんて一つであるはずがない

自身の成長と、身につけた「無駄」様の栄養が、答えを幾つも用意してくれる


今夜も「カデンツァ」を聴き比べながら、「万葉集」に浸ろう...

 

 


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