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「古典」に、かたぶくる一日

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「古楽演奏、古書、そして古解釈...」

ここ数日、以前ほどの余裕を持てなかったため

昨夜から無性に、読書やら音楽に耳を傾けて過ごしたいと思い

その中で、少しばかり感じたことがあった


読書については、ここ何年も「小説」類には触れたこともなく、

「万葉集」絡みの「書」を貪り読んでいるが、その習性が知らず知らずのうちに

私の「感受」のベースになってしまった感がある

そのことに不満もなく、それこそ喜んで「甘受」したいものだが...


今、このことに改めて思い至ったのは、「クラシック演奏」の「古典スタイル」を聴いていたからだろう

「古典文学」と言っても、私にはきちんとしたその「基礎学力」もなく、

ただただ、「万葉集」のみに心を奪われるだけなのだが、そこから派生する諸々の「好奇心」、

そして今に至っては、現代解釈よりも、「いにしへ人」たち先人の「解釈」に心惹かれ、

それが自分の素人解釈と重なった時の感動は、まさに無邪気な子どものように見えることだろう


「古典の解釈」という、「古典文学」では普通に意識することなのだが、

「音楽」に関して、となると

それほど意識することもなかった...ついさっきまでは...


日頃から、私がいつも感じていること、そしてその「意義」に、いささかも揺るぎを持たないのが、

「作者本人の生の作歌、作曲意図を聞けない」古典作品については、

残された「文字、スコア」を、何を「軸」にして「解釈」するのか、と言うことだ

あまりにも自明なことであり、素人の私でさえその「問い掛け」には即答できる


残された「文字」を、たとえば「あ」とあるものを、「か」とは読まない

また、譜面の「4分音符ド音」を、「8文音符ド音」とは解釈しない

確かに、八世紀の「万葉集」に限れば、その原本がすべて借字の「漢字表記」であり、

そこに、十世紀になって「訓点」を与えたものだから、それまでの「写本」の過程の中で、

「誤写説」、「誤字説」、「脱字説」など、合理的な解釈を求めるあまり、

そんな恣意的な作業や考え方も多く見られはする

そこから、時と共に研究が重ねられ、他文献との隙のない必然性を求められつつある

現代では、多くの研究書でも、ほとんどの「万葉歌」の「定訓」は成っているが、

それでも、「未定訓」の「万葉歌」も、少なくない

先に挙げた「誤写説」、「誤字説」、「脱字説」などは、最後の最後に行き着くところなのだろうが

それが、比較的早い時代に提唱されているので、

現代の研究書では、意識せずとも、その影響下での「決定稿」らしきことは、やはり問題になると思う

だからこそ、多くの「古注釈書」に触れるのは、現代の一般的な「万葉集」テキストには見られない、

その過程を自分の「こころ」で感じられる、とても意義あることだ


その点、音楽における「古典解釈」は、どうなのだろう

少なくとも、現代に普通に聴ける「古典」という音楽は、

「万葉歌」のように「文字」を「解釈」する、というものではない

誰にも間違えようのない「楽譜」という存在は、絶対的なものだ...しかし...

どうして、演奏家によって、こんなにも「音曲」が違うのだろう、と...


今度は、「万葉集」に限定せず、「古典和歌」との比較になる

上述の「作者本人の意図」が聞けない、残されていない時代の「作品」では、

少なくとも、読み方については、間違えようはない

もっとも、明白な「誤写説」は存在はするが、基本的に「訓」についての異同はないはずだ

それは、「古典音楽」の時代が、印刷技術の発展と共に「大衆」に向けた演奏に隆盛をもたらせたことと

時代は異なりはするが、同じではないか、と思う

「間違いようのない記録」という点では...


そこで「解釈」という、新しいターゲットが、「古典音楽」には出現する

作者存命中の演奏であれば、おそらく「作曲家」からの演奏についての注文も多かっただろう

当然、作曲家自らの演奏も、一つの「正解」として継承されていく

そこは、「古典和歌」と、大きく違いはするが

「古典音楽」は、次第に「演奏家」にある「使命」が加わり始める

それは、いかに「魅力的」に演奏し、聴衆に感動を与えられるか、と...

それは、作曲家が他界すれば、それこそ「演奏家」こそが、「一曲の明暗」を左右することになる


「古典和歌」、「古注釈書」の時代に、「文字、語句」の解釈に心血がそそがれ、

それは現代でも、多くの「注釈書」の基礎となり得る「作者の意図、気持ち」というふうな表現が続く

しかし私自身は、あくまで「作者の意図が伝わらない以上」と開き直って、

「自分は、このように感じた」という「和歌の楽しみ方」をしている

だから、同じ歌でも、私自身がそれに触れる時、それぞれに於いて、また「感じ方」も違う

そこに、「作者の意図」は純粋な意味では見ることは出来ないが、

それは、「正しいものを求めよう」とする、多くの研究者たちの「道」として

私は、その「一首」から自分を「見詰め」られればいいなあ、という程度のことだった


「古典音楽」では、どうもそんな割り切り方が、うまくいかない

聴いた演奏が、そのまま自分の感情に直結する


「古典和歌」の「注釈者」たちと同じように、

「古典音楽」の「演奏者」たち、多分に「指揮者」という「演奏家」は、

「作曲家の意図、スコアに忠実に」と言葉にする

そこに、演奏家であると同時に「注釈者」としての「研究姿勢」がある

それでいて、同じ曲を聴きながら、どうしてこんなに表現が違うのだろう、と考えてしまう


今でこそ、それほど際立った「演奏」というものは聴かないが、

私が中学生の頃、まだ「クラシック音楽」に馴染み始めた当初には、

今思い返しても、あんな時代はなかっただろう、と思える演奏家たちのレコードが大勢あった


そして、無邪気に私たちが手にする「レコード」は、

何と言う曲は、誰々の演奏でなければならない、とか...

トスカニーニ、フルトベングラー、クナッパーツブッシュ...カラヤン、バーンスタイン...

まるで、曲に感動する、というよりも、その演奏に感動を求めるかのような時期が、私にはあった


昨日から、BGMで聴き流していたはずの「ブルックナー」に、

今は、しっかりと耳を傾けている

第八交響曲と、第九交響曲...


それを、フルベン、クナ、チェリビダッケと交互に聴いて...

彼らの「作曲家の意図」というものへの「表現」は、それこそ理屈ではなく

私に感じられるのは、彼らの「スコア」への傾倒しか思い浮かばない

「古典和歌」の解釈のように、一字一句やその詠歌の背景を手掛かりに「解釈」を求めているのだろうか

いや、「譜面」が語り掛けるメロディに、指揮者として当然こうなる、という勢いもあるのだろう

緻密なスコア解釈に、人間的な情緒が表現される...それが「古典和歌」解釈との違いかもしれない

そこに、研究者が「一字一句」に心血を注ぐ「作者像」を求める「古典和歌」解釈との違いがある


しかし、いずれの「鑑賞」も、私たち凡人の魂を揺さぶるほどの影響を与える...


「古典の解釈」と言うのは、「解き明かそう」ではなく、

自分の「魂」が、どれほど揺さぶられるものなのか、という

そこに向かうべきものだ、と

一連の演奏を聴いていて、そう思った

「答え」が、そこにあるのではなく、そこにあるのは「立ち竦む自分自身」

それを求めるのが、私の「古典鑑賞」かもしれない

 


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