今日、先週の「壱岐の島」企画展で観賞に行った「大阪府立弥生文化博物館」の、
エントランスホールで行われた、ミュージアム・コンサートを鑑賞してきた
このところ、地元の演奏家などのよる「アンサンブル」や「ソロ」に触れる機会を大切にしている自分がいる
もともと、「室内楽」を演奏会は、都会の「ホール」で鑑賞するより、
地方都市の、小会場の方が聴き心地もいいものだが、
今日のように、「博物館」のエントランスホール、というのもいい雰囲気を醸し出している
先週、「壱岐の島」の企画展に行ったとき、今日の案内を知ったのだが、
家人によれば、公報でそうした案内は、いつもしている、という
滅多に見ることのない公報なので、迂闊と言えば迂闊だが...やはり「生演奏」はいい
今回、どうしても拝聴したかったのは、バッハの「ピアノ協奏曲第一番」がプログラムにあったからだ
バッハの当時には、ピアノという楽器はなく、「チェンバロ」、または「ハープシコード」という楽器で、音色が全く違う
それでも、現代では「ピアノ」で演奏されるケースもあり、その時は「ピアノ協奏曲」といい、
古来のチェンバロによる演奏の場合は、「チェンバロ協奏曲」としてプログラムに載る
そして何より、感慨深いものを感じるのは、この「ピアノ協奏曲」、
「ピアノ(チェンバロ)協奏曲」という現代では一般的なこの形態の、世界で最初の「楽曲」となったことだ
それ以前に、「ピアノ(チェンバロ)協奏曲」という楽曲のスタイルはない
私が、この「チェンバロ協奏曲」を初めて聴いた中学生の頃、
それまで、オルガン曲のイメージが強かったバッハへのイメージを一新させてくれた
オルガン曲は、私には何故か宗教音楽のように感じられてしまい、少なからず抵抗もあった
勿論、偏見ばかりではなく、実際当時の音楽家は、教会音楽を盛んに作っていた
それが、「パイプオルガン」という、教会の象徴のような楽器によって観念が固定されてもいた
そこに、この「チェンバロ協奏曲」を聴いたのだから...大袈裟に言えば、中学生ながらも、
ああ、バッハの音楽は、こんなに瑞々しいものなのか...と
もっとも、この協奏曲にしても、決して「宗教」とは無縁ではないのだが...
そしてもう一つ、このバッハの協奏曲というのは、そのほとんどが、その原曲が他の楽器で存在する
今日の「第1番」も、研究によれば、その原曲は、紛失した「ヴァイオリン協奏曲」だという
中学生の当時、その復元された「ヴァイオリン協奏曲第一番」もレコードを見つけて聴いたものだ
正直言って、好みで言えば、私は「ヴァイオリン」の方が、この曲に相応しい感じがしている
「ピアノ」の音色...エントランス・ホール、という空間であることが、
音響的にどんな影響を及ぼすのか、科学的には私には解らない
それに、オリジナルの演奏の編成も、今の私には解らない
確かに、「協奏曲」と名付けられて、小編成ながら、一応オケの伴奏がつくのが普通だ
しかし、今日は先にハイドンの弦楽四重奏を演奏したメンバーに、コントラバスを加えただけの、
かなり小編成の演奏になった
ホールの規模からすれば、それで充分だ
先々週の佐保山茶論での「無伴奏ヴァイオリン」と同じように、演奏者から僅かな距離で聴くスタイル、
これが、何ともいえず心地よい「音」で身体を包み込んでくれる
「音に抱かれ」という表現を、恥ずかし気もなく使えるのは、こんな時だろう
それに、小編成といえども、全ての楽器によるユニゾンの主題は、心を揺さぶる高揚感を与えてくれる
そう言えば、明日香の万葉文化館でも、こうしたエントランス・コンサートは、しょっちゅう行っている
この時期だったか、奈良フィルハーモニーの奏者達の室内楽も、開催されている
また調べてみよう
「万葉集」と「室内楽」のひとときは、今の私にこれ以上はない安らぎを与えてくれる
帰りに、ついでだから先週の「企画展」だけでなく、「常設展」も回ってみた
改めて、「銅鏡」の美しさに見惚れてしまった
そして、弥生時代最大級の「くり抜き井戸枠」...迫力がある