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Channel: 残雪、もとめて
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無伴奏の孤高性

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通常、たとえば「ヴァイオリン・ソナタ」などという時は、

和音を演奏できないヴァイオリンと、和音を演奏できるピアノのような鍵盤楽器を伴う楽曲をいう

音楽の調和、という感じ方を主体とするのなら、「無伴奏」という形態は、かなり難しい聴き方になると思う


その現実が、「無伴奏」という形態の楽曲が少ないことに表れていると思う

確かに、聴く方もリラックスして聴けるものではない


それを、昨日は奈良の「佐保山茶論」で、真直に演奏者を見ながら聴くことができた

演奏者自身が、演奏終了後に話された言葉が印象的だった


バッハの「無伴奏ヴァイオリン」は、「ソナタ3曲」と、「パルティータ3曲」の計6曲がある

それを、一日で演奏することは、初めてのことだと

さらに、練習でもしたことがない、とも付け加えておられた


仮に全曲を通しで演奏しても、3時間ほどだろう

確かに、それは大変なことだと思う

ましてや、一音も絶え間なく鳴らせ続ける「音」

「無伴奏」であることは、すべてが演奏者の呼吸にリズム、メロディを合わせなければならない

そうでないと、3時間ほどの緊張感、集中力を、到底自然に持続させることなど出来ない...


私が昨日聴いたのは第二部の「パルティータの部」3曲だったが、

そのちょっと前に「ソナタの部」で、3曲を演奏されている

私自身が、全6曲を聴く自信がなかったので、「パルティータ」に絞ったのだが、

この3曲だけでも、充分聴き応えのあるものだった


今まで、室内楽やリサイタルなどでも、小会場で聴くことはあっても、

今回のような、演奏者とそれこそ数メートルの距離で聴くことができたことは、

どんなに高名な演奏家の演奏を、専用のホールで聴くことよりも、遥かに胸に響いてきた

あれほど好きで已まなかった「シャコンヌ」が、目の前で奏されている

目を閉じて聴き入れば、

現代の感覚は一瞬の内に消え去り、肌に伝わるのは、無垢な「音色」だけ

それが「ヴァイオリンの音色」だとか、どんな楽器の音色なのだ、とか一切失せてしまう

「音」そのものが、身体や心を刺激してくる

それに呼応するかのように、普段描くことのない「自身の中の宇宙」が、いつの間にか浮かび上がってくる


これがバッハなのだと、改めてその強烈な意思に叩きつけられてしまう

それでいて、美しい音色で奏でるメロディに、「ヴァイオリン」を意識されられてもいる


演奏が終ってから、その演奏者のステージに上がり、視聴席を見た...何と言う近さだ

目の前に10数名、二階には30名ほどの視聴者がいた

それが、この「サロン」的な会場で、それぞれがそれぞれの楽しみ方で、聴いていたはずだ

大掛かりで圧倒的なオケの演奏も素敵だが、こうした「サロン」的な「ソロ演奏」も、

ようやくその味わい方を知ることができた、そう思える...この年になって、だ


この「佐保山茶論」には、本来「万葉集」(大伴家の)縁の地であることから、

私も、「万葉集」の企画の時には参加しているが、これからは「ソロ演奏」も楽しみになってきた

 


サロンを後にする頃は、外はすっかり日も暮れ、佐保山の辺りは、都心部の街では考えられないほど静かで人通りもない

いつもの高畑の駐車場まで歩いたが、幹線道路も車は少なく、先週臨んだ鷺池からの花火の場所、

その鷺池でも暗闇に支配され、人の姿が見えない

奈良...まだ夜も8時にはなっていない時間なのに、

「もちいどの」のアーケードにしても、静かなものだ

奈良の時代もまた、暗くなれば、確かにこんなものなのだろうと、改めて思う


この演奏に併せて、昨日は午前中は大阪和泉市の「大阪府立弥生文化博物館」に立ち寄ってきた

今、「一日一首」で取り組んでいる「遣新羅使歌群」の関係で、どうしても開催中の「壱岐の島」に触れたかったからだ

一日で両方を望んだのは、「万葉集」が取り持った縁を感じたから、こんな無理をしたと思う

そのことは「一日一首」にも少し触れたが、ここでは「万葉集」が主ではないので、写真だけにしておこう

 

「大阪府立弥生文化博物館 海の王都・原の辻遺跡と壱岐の至宝」




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