このところ、夜になって読書や書き物をしていると
そのBGMとして聴く音楽に拘るようになってきた
以前なら、バロック音楽が殆どだったが、最近では結構重厚な曲を選んでしまう
聴き流すので、この際だから、とシリーズをかけっぱなしで聴く
先日のブルックナーは、本来はBGMではなく、「構え」て聴くべき曲だった、と反省している
いつかは、「マーラーとブルックナー」のことを「音楽雑感」にでも書こうと思うが、
なかなか、そんな余裕がない...早くのんびりしたいものだ
ブルックナーで、頭の中が非常にがちがちになってしまったような感覚があるので、
今夜は、シベリウスを通しで流してみた
私の好きな曲は、「トゥオネラの白鳥」と、第四交響曲なので、偏った聴き方だが、
今回は、珍しく第三番から...
やはり、意識して聴くと、一人の作曲家の「転機」というものを感じてしまう
第二番から、第三番へのつながりは、それほどギャップも感じないが
それが第四番になると、随分と違ってくる
先日「原始霧」というブルックナー特有の表現を持ち出した
しかし、第四番以降のシベリウスでも、まさに「原始霧」と言いたくなるような情感がある
それは、北欧の森の中に佇む「湖」、そこにかかる「霧」のようなものだ
しかし、ブルックナーとの大きな違いは、その霧が、決して容易に晴れ上がらない、ということだ
どこまでもどこまでも、むしろ深まっていくかのように、湖の深淵に引き込まれていく...
久しく弾いていなかったピアノ、明日にでも弾いてみよう...やはりバルカローレ...
何かにぶち当たれば、それを突き抜けるエネルギーが必要なのだが
それは、何も激しいものでなくてもいい
自分が、落ち着いて、その「時」を見詰め、感じることが出来れば...
音楽と言うもの、そんな作用があったこと、うっかり忘れていた