「原始霧」という言葉を、いやその文字を初めて目にしたのが、中学生の頃
もう四十数年も前になる
当時の私が、言葉としての「原始霧」を、どう理解していたか、まったく覚えていないが、
こうして、改めて考えてみる、ということは
おそらく、当時はただただ「聴覚的」に頭の中に描かれた世界を、
何の不思議とも思わずに、そのまま受け入れていたのだろう
そして、「原始霧」という「言葉」が、一般的に使われているかのように、思い込んでもいた
何時頃、それが特定の事象を指す「言葉」だと気付いたかは、やはりそれも覚えていないが、
それとて、本気で考えたこともなかった、と言うことだ
今年に入って、夜、こうして机に向かい、ものを書いたり、読んだりする、そのBGMとして、
ずっと、ブルックナーの交響曲を流している
この交響曲群は、聴き流す分には心地良いが、真剣に聴こうとすると、かなり勇気がいる
何しろ、長大な交響曲ばかりで、しかも批判的な評価の代表格が、「冗長」というものだ
決して、そうではない、と言えないのも、ファンとしてはもどかしい
かと言って、嫌いか、と言えば、むしろ「大好き」と自分に答えてしまう
それほど気に入っているのに、ベートーヴェンやモーツァルト、バッハを聴くようには気軽には聴けない
いや、気軽にというのも語弊があるが、構えて聴くにしても、躊躇することなく聴くことができる作曲家たちとは、
このブルックナー、明らかに違う
何しろ、構えて聴く、とすれば、大きなエネルギーを持って決意しなければならない
それは、たんに時間的な長さだけでなく、「冗長」という言葉にもあるように、
その繰り返される小節の多さにもある...ある意味で、じっれったい、とも思ってしまう
だから、「大好き」と思いながらも、いつしかブルックナーの交響曲は、「BGM」と割り切って聴いていた
しかし、今になって気になるのが、「ブルックナー開始」と言われる「原始霧」だ
これには、聴き始めた頃、中学生の頃から、随分気に入っていた
聴き取れないほどの弱奏で、交響曲が始まる
「BGM」のつもりでいても、何故かその部分だけには耳を澄ませてしまう
そして、「ブルックナー・トレモロ」と言われる、弦楽器などの刻むような音が重ねられる
第0番から始まり、未完で終った第9番までの全十曲、すべてが同じパターンだが、
私的には、この「原始霧」の表現がぴったりするのが、第9番だ
若い頃は、とても解り易く感じた第4番「ロマンティック」や、第7番の美しさに惹かれたが、
現在では、第9番の「原始霧」にすべてが霞んでしまう
「原始霧」と言わしめたもの、そしてそのイメージを、考えてみると
そもそも「原始」と名の付く、たとえば「原始林」などと言うように、
どこまでも「始原的」なありのままの自然のイメージがあり、
そこに「霧」という、効果的な演出がなされる...あくまで「自然に」なされる
そのイメージを浮かべようとすれば、どうしても、これまでどこかで見たことのある「映像」が浮んでくる
奥深い森に立ち籠める「霧」、隠されていた生い茂った樹木が、徐々にその姿を見せ始めるさま...
人の感じる想像は、せいぜいそんなところだ
「原始霧」が、次第に解かれていく描写を思わせるその神秘さには、確かに心が惹かれる
人は誰でも、心に覆い隠そうとする「何か」を持っている
無意識に持っていることもあるだろう
よく言われる「明けぬ夜はない」と同じように、
「原始霧」に包まれた「心の霞」は、やがてその姿を現し始める
その時に、気付くこともあるだろう...何を自分は覆っていたのか、と
これまで、ただ聴いていただけなのに、何故こんなふうに思うのか、自分でも解らない
同じ曲を、何度も繰り返し聴くとすれば、それもあったかもしれない
しかし、このブルックナーのように、全十曲すべてが、同じパターンで曲が始まる
そこに、私に想いを「立ち止らせる」ものがあったのだと思う
確かに作曲家に限らず、創作する者は、それぞれの作品を独立させることが多い
だから、この作品は好きだけど、あの作品は、あまり好きではない、と嗜好が生じる
それが普通のことだし、私もそうだった
しかし、新年から連続して聴き始めているブルックナーの交響曲、
その「原始霧」と言われるものに、何故か構えて聴き、考えてしまう
違う曲なのに、同じ始まりの手法を頑なに貫き通す
悪い言い方をすれば、常に新しいものを創出する意思の欠如、
良い言い方をすれば、強靭な「信念」を見せ付けられる
誰が名付けたのか解らないが、「原始霧」...いい表現だと思う
「見えなくても、そこに確かにあるもの」...何故なら、そこに「原始霧」があるから...
今年は、これまでと違う年明けの「想い」になったようだ