[今日の万葉文化館・高松塚の梅]
やっと春らしくなって、気分も上々で明日香へ向かう
このところ、奈良へはよく通ったが、明日香は...今年初めてになる
調べたい書物が、どうしても「古書店」で見つからず
「万葉文化館」には、あるかな、と期待して車を走らせる
...そこには、当たり前のように書架に収まっているので、やはりここだ、と
あらためて、そのありがたさを感じてしまう
30年前の限定本なので、相当高価なものだ
しかし、私が今知りたいと思っていることの、少なからず参考になりそうな書物なので、
どうしても手にしたかった
「万葉集巻第十五」の「遣新羅使歌群百四十五首」
手元にある資料だけで、随分暴走しているので、実際の「学会」での「緒論・諸説」を知りたかった
これまで、ただただ「万葉歌」の一首一首に、「万葉時代の味わい」を求めてきたが、
この「巻第十五」は、そんな私のアプローチを受け入れない
「歌群」...この一括りを、味わってくれ、とでも言うように...
ところが、この「巻第十五」に関する書物は、かなり少ない
「歌物語」風の、特殊性もあるだろうが、
ここしばらく、この「歌群」に取り組んでいると、
この「巻第十五」こそが、「万葉集」の「成立」の手掛かりに思えてきてしまう
勿論、私にそんな重大な「論説」を展開する能力なんてない
あくまで、素人の単なる「自己満足」に過ぎないが、それでもこの「巻第十五」を読もうとすると、
いろんなことが関わってくる
「万葉集編纂者」、「万葉集の成立」など、それだけで無数の研究書が存在する
その手掛かりが、この「巻第十五」を理解することで、少しは得られそうな気がしている
「遣新羅使歌群」の影響で、藤原濱成「歌経標式」を読み直し、
この「漢籍」に秀でた者が評価される時代で、「風流心あるもの」と「続日本紀」にも見える「歌」の「意識」
こうした「正史」だけでなく、一応公文書となる「風土記」や、
奈良「時代」人で、ことさら「異質」感を漂わせている人々...
そこまで手をつけなければ、この「巻第十五」を読み通すことができない
それは、必然的に「奥付き」のない「歌集・万葉集」の、奈良時代における「輪郭」を浮かび上がらせるものだ
ブログには、いつも思いつきの行ったり来たり...そんな記事ばかり書いてきたが、
現在、ほとんど「歌意解釈」は載せられず、「奈良時代」そのものに想いが行く
いつも自分に言い聞かせている、「素人の楽しみ方」、
誰が何と言おうが、「俺は、こう感じた」と言うスタイル
まさか、ここにきて、「歴史」の勉強に戻されるとは、思いもよらなかった
いや、「歴史」を学ぶ、というのは、驕りになる
私にとって、「奈良時代」は、「歴史」ではなく、唯一「万葉人」と触れ合える「言葉」、
それを、理解するために欠かせない「舞台」だから、
「律令国家体制」の胎動の時期に生まれた、唐風文化に対する国風文化「和歌」への凄まじいエネルギーを、
表記される「借用文字」から表面的に感じるだけでなく、少しでも「万葉人」の「心情」に触れたい、と
こんなにも、「歴史」とか「「和歌」とかの分野に捉われず、のめり込んでしまうのだろう...
まるで、若い頃、盲目的に登っていた「山」のように...
その意味では、すでにこのブログタイトルの「残雪、もとめて」を考え直そうとしていたものだが、
これはこれで、私にとって、新たな「残雪、もとめて」になる...そう、あの頃と同じ気持ちなのだから...