このところの数日、帰宅して決まって聴く音楽がある
この曲と最初に出合ったのは、中三の頃...もう四十数年も前のことになる
しかし、私の記憶では、数回そのレコードを聴いただけで
すっかり聴かなくなってしまった
最初に期待した「何か」を、感じられなかった
たぶん、そんな理由なのだろう
あれから、随分月日も経ち、すっかりその当時のことなど忘れていたのだが、
先日、テレビ録画で観た指揮者パーヴォ・ヤルヴィの音楽を聴こうと、YouTubeで検索していたら、
ブラームスだけではなく、ブルックナーの交響曲もかなりアップされていた
...そして、懐かしい曲名にであった
それが、四十数年のいわくのある「不滅」という交響曲だ
カール・ニールセンの交響曲第四番
手元に資料がないので、詳しくは解らないが、「不滅」という題名、
ニールセン自身の命名なのか、後付なのか、私には解らない
ただ、ベートーヴェンの「運命」が、日本人好みの命名であり、
ベートーヴェン自身が、その第五交響曲に「運命」と付けたわけではない
そのことを考えれば、「不滅」という結構印象的な「曲名」も、そうなのかな、と思うのだが...
曲を聴く
懐かしいイントロの、激情的な高鳴り
一気に中三の私に戻されてしまった
それに、従兄にからかわれたことまで、思い出した
お前は、レコードジャケットの派手な写真に惹かれたのだろう、と
そう言われれば、確かにそんな傾向が私にはあった
今のように、事前に知っている音楽の、指揮者によっての違いを楽しむのではなく
まだ、クラシックファンになって間もなかった私には、
どんどん新しいクラシック音楽に触れるのが楽しかった
レコード店で、その棚から一枚一枚のジャケットを見ながら、曲名を確認する...
そんな時に、「不滅」の圧倒的な海しぶきの写真に釘付けになった
何も迷うことなく、その一枚を買ってしまった
その写真の印象に惹かれて、きっと素敵な曲なのだろう、と期待しながら...
ところが、その頃の私には、モーツァルトやブラームスのような甘美な、また豪壮な曲にはすぐ惹かれても
それまで聴いたこともないような、リズムもメロディも追いつくことができず
何とか、好きになろうとするのだが...ついに諦めてしまった
ついでに言えば、今でこそ聴きなれ、尚且つ惚れ込んでいるストラビンスキーの「春の祭典」も、
同じように、その頃では全く聴くこともできなかった
何が何だか解らない、ひとくくりに「これが現代音楽なのか」と、理解出来ないことは、そんないい訳をして...
金管楽器の派手な響き、弦楽器の重厚に奏でられる調べ
それに何と言っても、当時の私に反感を持たせた、あの強烈なリズム
どうしてなのか、それらが今はすべて「古典」として聴き取れる
思い返せば、少し前にはバルトークの弦楽四重奏に凝り、そこに「美しい旋律」さえ見つけてしまった
そして、今は...毎日のように、この「不滅」を聴いている
四十数年前には感じたこともなかった、この曲の「旋律」の美しさに惹かれている
これは、どうしたことなのだろう
曲自体が、決して変化したわけではない
私の聴く心が、それらを受け付けるように変化している
長い歳月、と言うのが、実際どれほどの時間を言うのか、勿論個人的な違いはあるのだろうが、
私にとっては...少なくとも音楽に関しては、それを理解するのに四十年以上は、必要だった
と言うことなのだろう
それにしても、それでも尚バッハやモーツァルトなどの古典に惹かれ、ブルックナーやマーラーの、
あまりにも人間的な、ストイックな敬虔さと苦悩に同化してしまう自分が、ここにいること
つくづく、人の「感性」の計り知れない深さと、また止む事のない彷徨に驚かされてしまう
来週の金曜日には、有休をとって、最後の山行トレーニング
そして21日から29日までの北尾根
これが、一つの節目になる
それは、ここのブログの意義そのものにも...
私が、初めて「ブログ」を書き始めたのも、ここであり
その当初の気持ちは、若い頃の「山想い」を、もう一度綴りたかったからなのだが
こうやって、続けてみて、つくづく思う
もう、私にはそんな真似は出来ない
「山想い」は、あの頃だったからこそ、私には欠かせない「ノート」だった
その復活などとは、やはりどう考えても無理があった
年相応の考え方を、もっと尊重すべきだった
今、ずっと考えている
Yahooブログで、「和歌」に触れたり、HPで「万葉集」に拘っていることと同じように
ここでも、何かテーマを決めて、こだわりの「欠かせないもの」を続けられたら、と...
北尾根から下山したら、そのスタートを切れるように、じっくり考えてみよう