ブログを始めた当初は、何も書けるものがない、と悩んだものだ
自分の趣味などを語ったところで、それは自分を見詰める、というよりも、
むしろ、立ち止らせてしまうかもしれない、と不遜にも考えてしまった
当時は、何かを書こう、ということは、「考える」ということ、そう思っていた
それを、いつしか忘れていたような気がする
その日、特別に記することが見当たらない、ということは、
何も考えない、みたいなものだ
何か小さなきっかけでも見つければ、それを自分に問い掛ける
そこから、まったく違うことへの展開になっても、それこそ望むところだった
その気持ちから始めたことを、しばらく忘れていた
今夜から、また再開だ
雪に纏わる自分の観念
雪に焦がれて、札幌に住んだこともあるのに、
今では、すっかり「寒がり屋」になってしまって...これって、年なのかなあ、と
いや、「雪」が、冷たくて寒い時期のもの、という固定観念があるからだろう
雪は、そんなに「冷たい」ものではない
何しろ、雪山に夢中だった頃は、冷たいなどと思ったこともなかった
いくら吹雪いていても、鼻水が凍っていても、冷たいなどとは思わなかった
今は、温もりに気持ちがシフトしている
それは、決して年のせいではない
心の求めるものが「温もり」であるのは、若い頃も同じはずだ
しかし、身体が感じる「寒さと温かさ」は、その「考え方」まで「凍てつかせたり、温めたり」する
自分を知ることを気にかけない日々は、「凍てついている日々」なのだろう
雪に久しく焦がれていない私が、このブログのタイトルに「残雪、もとめて」と名付けたのも
決して、若い頃への郷愁からではなかったはずだ
雪を見たくなれば、雪国に行くことが出来る
しかし、自分の中に潜在する「雪」を見るには、自分を見詰めるしかない
何も記することは、自分を見詰めないことになる
他愛のないことを、たった一文字でも書けば...そこから「考えること」が始まった頃に...
そう言えば、「本日、酩酊ゆえ、何も書けず」という、以前ノートに書いた一文を思い出す
少なくとも、そう考えた自分が、いた
山焼き、花火...飛火野に、雪よ舞え!