いつだったか、随分前のことだが、友人から酒席で「その演奏、どう思うか?」と訊かれた
後日の私の感想を求めての問い掛けだったが、しばらくしてから漸く「その」演奏を聴いた
その曲とは、ベートーベンの交響曲第三番「英雄」
あまりにも聴きなれた曲だったので
それに、数多くの名演奏もあることだし、何を今更なんだ、と
なかなか聴く機会を持たなかったのだが、ふと思い出して聴いたものだ
そして、第一楽章を聴き終わったとき、私は演奏から「逃れ」た
勿論、友人には「聴くに堪えなかった」とだけを、率直な感想として伝えたが
友人曰く、「でも面白かっただろう、個人的な解釈なんて、人が批判するものじゃない」
ただ、好き嫌いがあるだけだ、とでも言いたげだった
そうではなく、「好き嫌い」を「どこで、どんな環境で、何を目的にして」が前提ではないか、と反論したが
友人は、そのことはさらりとかわして、「でもなあ、あれは特別だった」と言う
そのことは、時折私の「気になる言葉」として、脳裏に過ぎるのだが
たまたま、万葉集の「一日一首」で、このところ「東歌」を採り上げており
それ以前にも、「万葉集」に対する私の「歌意解釈」の心構えを明言してはいたのだが、
この「東歌」シリーズで、それを特に強い意識、表現として書いている
そのきっかけは、「古注釈書」によるものだが...
そのことを思ったとき、上述の「迷演奏」のことを思い出し、さっそく視聴してみた
すると、当初に感じたような嫌悪感はそれほどなく
むしろ演奏家や聴衆の反応に目が行く
この「YouTube」で公開されている、「ベートーベン 英雄 世紀の迷演奏」
指揮は、私の世代ではかなり人気のあった「宇野巧芳」
情熱的な音楽批評は、若い音楽愛好家たちに随分受け入れられたものと思う
極端に言えば、「スコア」重視の演奏家、指揮者よりも
そこに「人間的な感情の起伏」を表現しようとする「演奏」に、一種の「ロマン」を感じ取ろうとする、
だから必然的に、世紀の大指揮者と言われるフルトベングラーのような、
「ロマンティシズム」の権化のごとくの、音楽観を熱望している
そんな「宇野巧芳」が、自分の解釈でベートーベンの「英雄交響曲」を振った
当然、聴く前の私は、随分な期待を抱いた...それが、初めの視聴では、「絶望感」に砕ける
しかし、今回の二度目を聴く前提になったように、
「個人的な演奏解釈、音楽観」は、どこまで許容できるのか、と言った興味に苛まれた
いきなり、冒頭の二つの「和音」...これが、この演奏のすべてではないか、と
やはり、どんなに自分の解釈に心酔しようと、この出だしの「和音」で、
それを台無しにしている
これから始まる「英雄交響曲」であるべき「和音」なのに、
最初の「和音」、そして続く二つ目の「和音」、
まるで、フィナーレの最後の振り絞った「和音」のように、音楽が「終る」
実際、私も先入観をなくして耳を澄ませば、この「和音」で、この曲は締めくくりのように感じたものだ
そこで改めて思うのが、「部分的」な解釈も、確かに必要なことだが
それは、あくまで「楽曲」全体に流れる役割として「調和」されなければならない
この二つの「和音」で、「一曲」になるはずの音楽が、分断されてしまった
少し気を取り直して、演奏家たちの姿を、目で追う
彼らは、どんな「音楽観」で、この指揮棒に従っているのだろう、と
「ため」という表現が妥当かどうか解らないが、我慢して我慢して、そして一気に奏でる
まさに、フルトベングラーの演奏がそうだ
だから、「アンサンブル」と言う厳密な「統制」はなく、逆にそれぞれの楽器を、ずらせて奏でる
弦楽器などで、それをされると、とても重厚な演奏に感じられる
そうした演奏は、現代ではあまり聴くこともないが
確かにフルベンの時代の、いわゆる大指揮者たちは、多かれ少なかれ、そんな演奏表現をしていた
勿論、トスカニーニのような、まるで「軍隊の規律」のように、どこまでも「スコア」に忠実であれ、と
そう言う指揮者もいるが、むしろそれが現代に引き継がれるスタイルであるが故に、
「時代の遺物」的なフルベンへの懐古趣味的な「郷愁」が、どうしても熱狂的なファンを持つ
私個人としても、フルベンの演奏も好きだし、トスカニーニの歯切れの良いスタイルも好きなのだが
そこには、指揮者の「音楽観」が「一曲」に生かされていることが前提となる
ところが、この宇野指揮の演奏は、それとは違う
ただただ自分の思うがままに、「スコア」を解そうとしている
そこには、全体に貫かれる「音楽性」が見られない
揺れ動く「感情」を、フルベンのような演奏に見るのとは違う、ただ無節操に真似をしようとする
そんな印象が拭えなかった
しかし演奏家たち楽員の懸命な「演奏」には、確かに頭が下がる
通常、あれほどテンポを落とせば、素人でも「音割れ」を心配する
でも、私が気にするほどの「音割れ」はなかった
しっかり音調を持続させている
スタイルで顕著だったのが、ティンパニ奏者の熱演だ
あの「俺は別世界」だとでも言わんばかりに凄まじい轟音を鳴らすが、
その仕草を見ていると、いかに「ため」を意識しているか、よく解る
我慢して我慢して、やっと解放されたのように轟音を響かせるあの仕草
なるほど、フルベンなどのスタイルの音楽観は、この仕草に「人間的な感情」を表現させている
演奏を終え、聴衆の反応を見る
幸い、ステージから数列の聴衆の動きまでは映像に収まっているので、それが解る
拍手音が聞こえる中、その動きを見てると、手を叩いていない人の姿も多い
後姿では、その表情は理解出来ないが、それでも拍手しているかどうかは、解る
まるで、面食らった演奏だった、とでも思っているかのようだ
おそらく、この場に私がいたら...きっと拍手はしなかっただろう
勿論「生演奏」故の「感動」はあるかもしれないが...
私の「万葉歌解釈」に、この出来事は大きく考えさせることになった
勿論、宇野巧芳のように、自分の信じる「解釈」そして「表現」を書き留めることには変わりないが
その前提となる「万葉人」の心だ
現代人の感性では、どうしてもちょっとした「自然観」や「死生観」、そして「恋愛観」
それらを「自分なら」と、意識しようがしまいが、影響してしまう
かと言って、歴史学者でもない、ましてや歌人でもない私が、その時代に相応しい解釈など到底できない
それは、スコアから作曲家の「感性」を読み取ろうとする演奏家たちと同じものであるはずなのに
一首全体に流れる「心の調べ」を、表記されている「言葉、文字」に拘り過ぎていないか、と
それを平安期のいわゆる「訓点」が始まった時代の学者、歌人たちは
平安期の「和語」として解釈し「訓読」をつけてしまった
原点の表記に立ち返る動きは、鎌倉時代の東国人、仙覚からだが、
それが盛んになるのは「江戸時代」に入ってからのことになる
もう万葉の時代から、八百年以上も経っている
それでも、彼らはそれを試み、生涯をかけて研究をしている
現在、殆どの「万葉注釈書」は、基本的にこの江戸時代以降に著された書を参考にしている
そして近代以前の、これら鎌倉・江戸時代の「古注釈書」に、私が感じるのが、「万葉人の感性」への回帰だ
「感性」と言えば、ときには「法則」を度外視しても重要視される
それが許された時代があった...フルベンたちの時代のように...
そして、平安期の「訓読」のように...
それでも、仙覚以降の研究者たちは「感性と表現」の忠実さを重視した
その姿勢が、今日まで続いているのは間違いないことだ
では、私のしていることは、上述の私の感じた「宇野巧芳」のごとく、
自分への...自己欺瞞だったのだろうか
その怖れを、感じ始めて、このブログの記事を書き始めた
でも...「いや、違う」と思い直す
確かに、私の「古典への理解度」は、とんでもなく低い
しかし、一度解釈したことに「終り」としない
時を経て読み直し、何度も「感じ方」の自身の変遷を許容している
しかも、「万葉人が私に語りかける」というスタイルを基本にしているので
それを受け止める自分が、その時々の「自分」とは決して同一では有り得ない
私なりの受止め方は、私が感じた「万葉人の心」、それを「その時々の自分」がどう受け止めたか
このスタイルでいい
結局は「自分のための万葉集」であることには、変わりない...研究者ではないのだから...