万葉集に馴染むようになってから、「東歌」だけを収載している「巻第十四」は、
なかなかそこに向かえなかった
同じ「東国」の人たちの歌とされる「防人歌」には、比較的その作歌情況も思い描くことが出来るが
「東歌」となると、これまで訳も解らず「まだ手を付けないでおこう」と言い聞かせていた
しかし、「一日一首」のブログで、そのきっかけでも、と捲ってはみたのだが
その「深さ」に参ってしまった
そもそも「東歌」という「語」は、古典和歌では、「万葉集巻第十四」の二百三十首(他異伝歌八首)と、
「古今和歌集巻第二十」の十三首に付されているだけであり、
「古今集」では、「陸奥・相模・常陸・甲斐・伊勢歌」と五カ国の歌とされるが、
「万葉集」では、二百三十首の内、国名が明記されている歌は九十首であり、残りの百四十首は国名不明、とされている
しかも、「東歌」というからには、「東国の人の歌」という連想になるが、
その「東国」の範囲すら曖昧な点も多い
単純に考えれば、都より「以東」を、「東国」と称していただろう、とは思うが
それは、また別な角度からアプローチしなければならない
「一日一首」で、「東歌」を採り上げて、そろそろ半年になるが、
初めの頃は、ただただ「東国人」の歌という前提で感じていた
何しろ全ての歌が、「作者未詳」であり、まさに「名も無き人々」の歌、と思わされていた
勿論、作者名を明らかにしようなどとは思わないし、到底出来ることではない
いや、不可能だと断言さえ出来る
しかし、ここ数日扱った歌に、何となく、これまでに感じなかった「人の輪郭」が見えてきた
それは、漠然とした「東国人」ではなく、都から赴任した「宮人」の輪郭だ
そんな歌を意識した途端、「東歌」という、これまで鵺のようで取っ付き難かった「歌群」が、急に親しみを増してきた
そんな意識の変化に、大いに後押ししてくれるのが、先日古書店で手に入れた「万葉集東歌古注釈集成」だ
「万葉集東歌」二百三十首について、平安期から江戸末期までの「古注釈書」の「注釈」を原文のまま知ることができる
近代の「注釈書」は、比較的目にし易いが、「古注釈書」というのは、もう古書店でしかお目にかかれない
「古注釈書」に魅力を感じたのは、随分前になるが、
単に、古人の「歌意解釈」と言うだけではなく、
「万葉人」に対する「敬意」のような温かさを感じさせてくれる
研究成果、という面では、確かに現代での成果は「古注釈書」の著者たちの時代とは較べるまでもない
しかし、「万葉人」に対する直観的な感じ方には、なるほど、と思うことも多い
近代の注釈書になると、やたらに「語法」や「語句のデータ」が駆使されるが、
それは確かに、より多くの人を納得させる「材料」にはなる
その意味で、近代注釈書の中でも、折口信夫の「口訳万葉集」には、私ははなから目がいかなかった
いや、折口信夫だけではなく、いわゆる「歌人」の歌意解釈には、ついて行けないところがあった
それが、今は違う
学者の示す「歌意解釈」よりも、「歌人」の感性で語られる「歌意解釈」に、随分と引き込まれている
勿論、私が目指している、万葉歌全歌を、全て自分の感性で書き残しておきたい、という夢もまた
こうした「歌人」たちと同様に、「俺の感じた歌だ」という「想い」に他ならない
まだ千百首ほどしか残せていないが、残りの三千四百首...ペースを上げないと、間に合わない
「東歌」には、通説では感じ得ない「大きな魅力」がある
改めて、今まで避けていたことが悔やまれる