台風が過ぎ、再び真夏の暑さに体をへばらせて一日を過ごす
しかし、今日は違った
一涼の「癒し」を求めて、ずっと避けていた一枚のビデオを観た
それは、数年前に製作された「K2 初登頂の真実」
1954年7月31日、イタリア隊によって、初登頂されたエベレストに次ぐ標高(8611m)を持つ山だ
北尾根を断念した直後の私には、とても観れる映画ではなかったが
今日は、どうしても観たくなった
その一つの理由として、「名誉と引き換えに 男は何を犠牲にしたのか」と言うキャッチコピーが気になっていた
ヒマラヤのような独特な登山行為には、普段では思いもつかないような「人間の葛藤」が、多く詰まっている
それを、国威を懸けた登山行為に埋没させるか、あるいは赤裸々に「手記」として公表するか
これまでも、その種の「作品」は多くあったが、
この映画に、大いに魅力を与えているものは、
何といっても、私にとっては伝説の登山家の部類に入るヴァルテル・ボナッティの「手記」に基づくものだからだ
私が高校生の頃、初めて山登りに魅せられた頃、すでにこの登山家ボナッティの名は神がかり的だった
K2遠征隊でありながら、アタックメンバーでなかったことに、少しばかり不満はあったが
しかし、それが随分と歪曲されたものだった、とこの映画で知ることができた
おそらく、十数年前に本格的な山登りを止めた私でなければ、ボナッティの真実はもっと早く知り得たと思う
それが残念でならない
欧州アルプスを中心に、数々の初登攀を成功させ、
その頃の私が漠然と抱いていた、「アルプス型」と「ヒマラヤ型」スタイルの登山家の違いなのかな、
と、そんな他愛もないことを思っていた
それでも、ボナッティは充分憧れに値するアルピニストではあったし、
何より、その「哲学」に共感を持っていた
それは、人工登攀に欠かせない「埋め込みボルト」に対する見解だ
彼は、「不可能を取り除いてしまい、未知の要素は消え、冒険性を無くしてしまう」と語るプライドを持つ
そこに、登山が単に山を登るだけではなく、山を登る人自身それぞれに問う「何故登るのか」の応答の一端がある
そんなボナッティの人柄を、映像として見せられると、
山岳映画としてだけではなく、一人の人間としての魅力に、ぐいぐいと引き込まれてしまう
確かに、ヒマラヤを舞台にする美しさや荘厳さは、たっぷり見せてくれる
ヒマラヤの景観を眺めるだけなら、これほど美しい地域は他には求められないだろう
しかし、そこに「人」を歩かせてみる...
それは、それまで美しさや荘厳さを見せていたヒマラヤの、まるで人を寄せ付けないほどの荒々しさ、
そして、高所による酸素不足で、それまで自分をコントロールできた「欲望」の露骨さが滲み出る
たった一人なら、何も問題にならない
後の世代の、私のもう一人の憧れの登山家、ラインホルト・メスナーも、
同じようにその人間関係に打ちのめされ、結局「単独登攀」を志向するようになる
こうした前時代的な「国威」がかった遠征隊は、今でこそヒマラヤの8000m峰の未踏峰がないので、
ほとんど見かけることはないが、
かと言って、では気ままに「単独」で、というわけにもいかない
とてつもない能力と、何物にも打つ克つ精神力が要る
組織的登山の利点を否定すれば、それは個人の全ての能力の限界を発揮させなければならないし、
それが出来る人は、ごくごく僅かな人たちだ
この映画のキャッチコピー、「名誉と引き換えに 男は何を犠牲にしたのか」
初登頂と言う名誉の為に...ある男は、欲望に支配された自分を、その後の人生で「正当化し続けなければならなかった」
それが、どれほど登山家である自身を苦しめたことか...
欲望は、誰にもあるし、また必要でもある
しかし、それは「理性」でコントロールできてこそ、初めて「輝く欲望」になる
ボナッティは、晩年になって、「失った名誉」を取戻した、とされる映画ではあるが...
彼が「K2」以降も、あれほど見事な活躍をしていることを知ると...
そもそも、名誉など失っていなかったのでは、とさえ思えてくる
彼は、ただただ目の前に魅力的な山があって、その機会があれば、
だれが何と言おうと、「俺は登る」と言う純粋さだけが、改めて眩しく感じられる