一日と言うものは、一瞬も途切れることなく、偶然であっても、必然であっても
「その時」の存在に、何も疑問を持つことはない
いつもの私なら、そのことすら「思いつく」ことなく過ごしている
何も、今日特別なことがあった訳でもないが、
このところ、「想うこと」の「何か」を考えるとき、ふと頭を過ぎるのが、「飛び石」だ
ある事を、次々と行うにしても、あるいは「思う」にしても
それが、「生物的」な不断の「呼吸」ではなく、まるで「コマ送り」のように「断片的」になることだ
その一つ一つには、何も繋がりがない
しかし、それは確かに繋がっている...繋がっているからこそ、そこに個人の軌跡がある
若い頃、夏の山登り、と言えば、「沢登り」を楽しめた
幾つもの「滝」を直登したり、踝まで浸かる「滑滝(なめたき)」に心地良い涼感を求めたり...
しかし、忘れられないのは、沢を下るときの「飛び石」伝いの「駆け下り」にある
沢の水面から、所々に見せる「岩(石)の頭」を、駆け下る勢いで、次から次へと「飛び伝う」
自分の脚力をかなり承知していないと、悲惨なことになりかねない
それに、その「飛び石」は、人工的に配置されているものではないので
決して一直線に駆け下りる、というのではない
一つの石に着地したら、その勢いで次の石を瞬時に定めて体を跳ねる
そのスリルが、今思えば「沢登り」の、もう一つの醍醐味だったのだろう
一つ一つの石には、それぞれに干渉されない「味」がある
それを味わうこともあれば、気づかずに、次の石にステップしている
今の私が...まさに、そうではないか、と思えてきた
「予想」はできても、「予測」はできない
飛び石伝いに駆け出して、後に振り返って、それが初めて一本の「道」だと気づく
本来、駆け下りるのだから、「一本の道」だと、無意識には感じているはずだ
しかし...そうではない
目的地へ辿り着き、振り返って初めて、その「道」を認識できる
日々、その「飛び石」の如く...「想い」が跳ねる
夏は嫌いだ...暑過ぎる